ない。」
「だけど、変だったわ、時々じいっと坊やの方を見ていらっしゃる様子が……。わたし一寸恐くなりそうだった。」
「ははは、ばかな。」
 ――なんだ、そんなことか。
 佐野は笑ってそれきりにした。
 けれど、翌日の晩、武田が訪ねてくると、何故ともなく、二人とも玄関へ出ていった。
「やあー、また来ましたよ。」
 その調子ばかりでなく、様子に、佐野は一寸面喰った。先日の憂鬱な影が薄らいで、どこか無邪気なそして押しの強い、いつもの武田になっていた。
「僕の方から行こうと思ってたところだった。」
「なあに、別に用はないんだから……。一寸子供の顔を見たくなってね……。」
「…………」
 佐野は苦笑した。
「愉快なもんだね。」
「ほう、そんなに気に入ったのかい。」
「ああ、すっかり気に入っちゃった。」
「まあー、何を云っていらっしゃるの。」
「いや本当ですよ。佐野君なんか、家に子供がいるんだから、ふらふら出歩かなくったって、子供の寝顔でも見てる方が、よっぽどいいんだがな。」
「そんなら賛成よ、わたしも。あなた、どう……。」
「つまらないことを……。いやでも毎日見なくちゃならないじゃないか。」
「そう……義務となっちゃあ……駄目かな。」
「あら、義務じゃありませんよ。自然の情愛なんですもの。」
「そうです。義務は悪かった。」
「そんなこと、どうだっていいじゃないか。つまらない……。」
「うん、どうだっていい。」
 冗談のような真剣のような、一寸掴みどころのないものが、武田の調子に現われていた。佐野と敏子とは、何となく武田の顔を見守った。
 敏子が席を外すと、佐野は武田の方へ近々と視線を寄せた。
「あれから……こないだと、気持が変ったようだね。」
「僕が……変りゃしないよ。」
 武田は口を尖らせて見返してきた。
「然し、あの時はひどく君は陰気だったが……。」
「あ、そりゃあ、僕自身だって、時々ひやりとすることがある。」
「冷りとする。」
「何だか変に物が……周囲の世界が、象徴的に神秘に見えてくることがあるんだ。そんな時、亡くなった妻の姿……一種のイメージだね……それが、そこだけぽかっと空虚になって、真空というほどになって、はっきり浮出してくる……。」
「例の……形体ある空虚か。」
「それで僕は、変に堪らない気持で外へ飛び出す。そしてむやみと……彷徨するんだ。犬みたいだね。何かしら
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