が》の料理でも食べに行きましょうか、とそんなことを僕は云う。母は眼をあげて、僕の顔を偸むように見る。そんなことをするより何か他の滋養分でも……とその言葉をそっくり裏づける淋しい眼付だ。それがふびんなので、僕はある時女中に旨をふくめて、大黒屋の野菜の煮物や、鳥常の雛鳥の上肉や、広島牡蠣の殼焼など、母の好きなものを調えさして食膳を賑わしてやった。母はびっくりしたようだったが、僕の冗談につりこまれて快活になり、僕と一緒に実にうまそうに食べた。いつもより多く食べた。年老いた母がうまそうに沢山食べるのを見ると、涙っぽい擽ったさが胸にしみる。が老人のそうした食慾も、必要以上の味覚の慾だ。若い僕が、市内の贅沢な料理屋のことを空想したとて、或は芸者に恋したとて、敢て不思議ではあるまい。ただ悲しい哉、二つの慾を同時に満すことが出来なかったので、僕は恋愛の方を主とした。
 公平なところ、美人ではない。だが、味覚が個人によって異るように、美意識も個人によって異る。殊に恋愛の場合には、美意識は或る一局部に限られて、別な或る熱病みたいなものが大勢を支配する。試みに、恋人といわれる多くの女性を公平に観察してみ給え。あんな女を……と云えるのが大多数だ。鼻が曲っていたり、唇が反り返っていたり、眼が右と左とちんばだったり、耳朶が少し欠けていたり、背が低すぎたり高すぎたり、掌の幅が広かったり、方々に欠点だらけの者が多い。ところが、恋してる男の方では、それでよいのだ。それで満足なのだ。どこか一つのところに惚れこんで、その一点から全体を覗いてみるのだ。葦のずいから天井をのぞくようなものだ。それになお、恋愛は一種の電気作用だというのも、真理かも知れない。それはただ相牽く力だ。体質や気質による牽引力だ。然しともすると、一方だけが牽かれて、一方は何にも感じないことがある。僕の場合も、そういった感がないでもない。そんなら一体、どういう点から彼女を覗いたのか、それは一寸云いにくい。或は左の眼のうわずった斜視めいた眼付かも知れない。或は頬の生気のない蒼白い皮膚かも知れない。或はしまりのわるい口の舌ったるい言葉かも知れない。或は腰部が大きく胸部が腺病質に細そりしている胴体かも知れない。或は紅をさした細長い爪かも知れない。人は妙なところに惚れこむものだ。或は、そういった特殊な点ではなくて、花柳界の頽廃した雰囲気のなかで、毒をでもあおるように酒を飲む彼女の酔態かも知れない。なぜなら、真面目な時の彼女には僕は少しも心惹かれなかった。病気前から知り合いなので、どこから聞いたか彼女は、二三度病院に見舞って来たことがある。束髪に大島や或はじみなお召などを着て、小さな果物の籠や草花の鉢をさげてきた。いかがとか、いけないわねとか、お大事にとか、そんな通り一遍の挨拶より外に、何にも云うことがなかった。白粉のうすい顔の皮膚に妙に水気が乏しい。硝子窓の外の植込に雀が鳴いてるのを、珍らしそうに眺めている。ベッドからその姿を見ると、実際よりも背の低い小ちゃな冷い感じだ。そして十分かそこいらで彼女が帰っていくと、僕は何かしらほっとした気持になる。がその後でまた、しきりに彼女のことを考えてる自分自身を見出したものだ。僕の病気平癒を祈って酒を断ち、所在なげにお座敷をつとめてる彼女の姿までが、幻のように浮んでくる。
 退院後、僕は出来るだけ早く彼女に逢いに行った。彼女は一寸びっくりしたらしく、それからしみじみと僕の顔を眺めた。
「でも、よくなおったものね。二度も危かったそうじゃありませんか。」
 それが、喜びや嬉しさではなく、ただ不思議だという調子だ。退院してから、そんな挨拶に接したのは初めてだ。母は涙を流して喜んでくれた。友人や同僚たちは祝ってくれた。が全快したのを不思議がって僕の顔を眺めるのは、彼女一人きりだ。而もそれが如何にも純真で朗かだ。こいつめ、とぶん殴ってやりたいほど、僕は胸がすっきりした。そしてその時から、ほんとに強く心を囚えられてしまった。床の間の軸につがいの鴛鴦が泳いでいるのは俗だが、その下の方に、梅擬《うめもどき》かなにかの赤い実のなった小枝の根〆に、水仙の花が薄黄色に咲いている。その花が僕にはとても可愛く思えた。その方をじっと見てると、彼女はただ退屈ざましに云う。「まだお酒はいけないでしょう。」水仙の花を相手なら、酒は飲まない方がいいが、彼女となら飲んでやれという気になる。「なに構うものか。いけなかったら、君が僕の分も飲んじまえばいい。」とそんなことから、二人とも酔うようになる。だが、僕たちの関係は淡いものだった。彼女はなんのかのといって、なかなか床《とこ》をつけさせなかった。其後もほんの数えるほどしかない。絶対に浮気しない身分でもない彼女のそうした態度が、なお僕の心を惹く所以でもあった。
 一人の女に恋する……とまではいかなくとも、一人の女を愛する、ということは、よいことだ。僕のようなみじめな勤め人の生活では、それが一条の光と張りとを齎す。ただ、僕の場合は金がかかった。現金がなくてすむという便宜があるだけに、そしてそれが実は食慾よりも愛慾の方を僕に択ばした理由の一つではあるが、そのために却って無駄なことをしたり度々彼女に逢いに行ったりして、後で困ることになる。いくら待合だからといっても、時には多少の金を入れなければ義理がわるい。病中の費用なんかは、母が大事な貯蓄でどうにかごまかしてくれたらしいが、其他のことまで母におんぶするわけにはいかない。僕は友人から金を借りた。口実を設けて、社長から賞与の前借をした。僕一身に関する他の方面の支払を停止した。が、それでも足りない。彼女に贈るべき指輪が買えるどころか、また実際そんなものがどれほどするか知りもしなかったが、懐中はいつも淋しく、喜久本《きくもと》へはだいぶ払いがたまっていた。どうにかしなければならない、と考えるのだが、そのどうにかという必要が、いつも、一日一日と先へ送られてゆく。今日の日が暮れると、その勢で、必要が一日先に押し出される。毎日毎日を通じて、必要という棒をむりやりに押し進めてるようなものだ。而もその棒は益々太く重くなるばかりだ。それと睥めっこをして、煙草をふかしながら、もしここに千円もあったらと空想する。僕の身分ではそれは大した金額だが、数字の上では一寸したものだ。会社の帳簿などの上では、マル一つで数万数十万が左右される。一桁の数にマルをつけると、百以下の差だし、二桁の数にマルをつけると、千以下の差だが、五桁の数にマルをつけると、十万乃至百万の差になる。同じマルにも、場合によってこんな価値の差があるのは不思議だ。マルを一つ取りこんでやれ。マルは零《ゼロ》ではないか。僕に零を一つくれと云ったら、人はどんな顔をするだろう。
「君の様子は少し変だ。まだ病気がすっかりなおってないんじゃないのか。」
 そんなことを社の同僚が云う。或は少し変かも知れない。僕は一人の女を愛しているのだ。それに、大病の後転地保養もしないで出勤しているのだ。それにまた……これは愉快な思附だった。室の窓から、多くのビルディングの間をぬけて向うに、大きな気球広告が風になびいていた。気球の下には、不細工な文字が並んで馬鹿げた媚態を作っている。それらの文字の代りに、一人でいいから、天女のようなマネキンガールをくっつけたら……。そしてビラを撒かせるのだ。綺麗な五色のビラだ。銀杏の葉のようなビラだ。晩秋、空が蒼く冴え返って、冷かな寒風が街路に踊り狂ったことがある。大きな銀杏の並樹が聳えて、黄色い葉に蔽われている。その葉が突風にもぎとられて、無数に乱舞する。地面も空中も一面に、真黄色な渦巻だ。そして四五時間のうちに、銀杏の並樹は蒼空の下で半ば裸になってしまった。あんな風にするんだ。羽衣をつけたマネキンガールをあらゆる人が驚異の眼で見上げる。とその乙女の手から、銀杏の葉の形をした五色のビラが、無数に降ってくる。それを拾ってみない者は、馬鹿か偽君子だ。すばらしい広告的効果がある。街路樹が黄色い葉を撒き散らしてよいとすれば、天女が五色のビラを撒き散らしたとしても、警視庁で文句のつけようはあるまい。人体では気球に重すぎるとするなら、軽いロボットを考案すればよい。このロボットの考案者は、素敵な金が儲かる。そんなことを僕は考えていたのだ。それを邪魔した声の方を振向くと、張子のような顔が真正面にこちらを向いている。色素が余って血液が足りないような類の色だ。丹念に鋏で刈りこまれたらしい口髭が、鼻の下に逆立っている。一体髭にしろ髪にしろ、先端が細くしなやかでなければ毛としての優雅さは持ち得ないものだが、大抵の口髭は先端も根本も同じ太さで、ぶつりと断ち切られている。針金を植えたも同じだ。それを一種の装飾だと自惚れてるからおかしい。それと対照的に、眉根に二つの皺が縦に刻まれている。そして目には、底力のない鋭利な光が浮動している。奥行がなくて角膜にだけ浮いてるその鋭利な光の動き工合に応じて、眉根の皺が深くなったり浅くなったりする。これは生活の表徴とも云うべきものだ。社債の売買応募、金融の仲介、そんなことを主としてるこの商事会社では、微妙な而も単なる数字的な駈引折衝が社員の重な仕事だった。誰かが――例えば僕が――病気で長く休んだとて、社の業務には大した支障を来さない。いつも隙だ。がいつも神経的に忙しい。こんな生活を長くやってると、神経だけが尖鋭になり、情感が遅鈍になり、血液の循環が不平衡になる。眉根の縦皺と角膜に浮動してる光とがその徴候だし僕は同僚のそれを見てると、何だか胸が重くなってきた。そこで、スチームの暖気でむうっとしてる密閉した屋内に、爽かな冷い外気を吹入れるような調子で、マネキンガール――或はロボット――のことを話してやったものだ。が彼は、それから周囲の彼等は、何の感与も起さないらしい。彼等は僕のことを、非実用的なことばかり考えてる夢想家だと見做しているが、その夢想家の馬鹿げた空想の一つとして聞き流してしまった。然しそれは、彼等が気球広告をよく眺めていない証拠になるばかりだ。誰にでもいつかは気球広告をじっと眺める時がくる。彼等にも後でその時が来たに違いない。僕のことを気球ロボット先生と綽名するようになった。
 気球ロボット先生というのは、僕としてそう嫌な綽名ではない。病後の自由と淋しさ。大都会のなかの孤独。気球もきっと同じ気持を感じてるに違いない。そして彼が常に寒い風に曝されてるように、僕の懐中も窮乏の寒さに曝されている。そのなかで、彼女に対する甘ったるい空想に耽るのだ。そんな時の金ほどつまらないものはない。僕は母をごまかして得たうちの百円を、喜久本の帳場に瓦礫のように惜しげもなく投げ出せたものだ。母は幾つかの指輪を持っていた。そのうちに、年老いてからは殆んど使わないダイヤが一つあった。それを暫く――次の賞与まで――貸してくれと僕は頼んだ。実は友人に古い借金があって、それをこんど返さねばならない義理になった、なんかと。そして、指輪を質屋に持って行くようなことをしなくても、どうにか工面してあげようという母を、無理に口説き落してしまった。母はうすうす僕の身持のことを気付いでいるらしかったが、それについては何とも云わない。命拾いをした息子、それだけが胸一杯になっているのだろう。僕の顔をやさしく見守って云うのだ。
「ほんとにねえ、お前さんに不自由はさせたくないんだけど……。」
 その言葉だけで僕はもう沢山だ。不自由……と云えばやはり不自由には違いない。だが母だって、食べさせれば大黒屋の煮物をうまそうに食べた。涙を見せるのは恥だ。そのダイヤの指輪が質屋で百五十円になったのは、拾い物をしたようなものだった。それでも、僕の懐中は淋しい。懐手をして、百五十円の紙幣を押えて、街頭の一隅に佇んでいると、往き来の人々の顔が、どれもみな金銭を目指しているように見える。蜘蛛の巣のように四方八方に交錯している彼等の目的の方向は、みな金銭を終端に持ってるように思われる。金銭がなかったら、人々はこうも多忙では
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