慾
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)一切《ひときれ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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飲酒家の酔い方には、大体二つの型がある。一つは、外部から酔っていくもので、先ず膝がくずれ、衣服の襟元がだらしなくなり、手付があやしくなり、眼付が乱れ、舌がもつれてくる、がそのくせ、意識はわりに混濁せず、どこかしっかりした理性的心棒が根強く残っている。謂わば、運動神経のみが重にアルコールに侵されるらしい。そしても一つは、内部から酔っていくもので、先ず意識の混濁と分裂が初まり、連想作用が突飛になり、想像が奔放になり、筋途立った思考が出来なくなる、がそのかわりに、姿態はなかなか崩れず、視線もしっかりしているし、言葉もはっきりしているし、儀礼的な訓練か習慣かを――実はそんなものは少しもない場合にも――想像させる。謂わば、意識中枢が先ずアルコールに侵されるらしい。顔が赤くなるのは前者に多く、顔が蒼くなるのは後者に多い。そして人は普通、単なる酒席でなく何か用件を交えた場合、前者に対しては用心の必要を感じないことが多く、後者に対しては用心の必要を感ずることが多いけれど、それは認識の不足で、実は逆に、前者に対して、必要なる場合にはより多く用心しなければならない。
中江桂一郎と村尾庄司とは、或る小料理屋の二階で、女中も遠ざけて、二人きりで酒を飲んでいたが、中江はどちらかといえば内部から酔っていく方で、村尾は外部から酔っていく方だった。ところで、多摩結城のついの羽織着物に高貴織の下着などを着こんだ洒落た中江の方が、古びた薩摩大島などをまとっている村尾よりは、自然態度もしっかりしているのは当然らしいが、小肥りの皮膚の艶々しい中江の顔がわりに血の気が薄く、ふだん蒼白い痩せた村尾の顔が赤くほてっているのは、一寸対照的に奇異に見える。そして中江はぐいぐいと杯をあけるが、村尾は杯にやる手先を躊躇しがちである。その代り、村尾は殆んど一人で饒舌っている。饒舌るというより独白の調子だ。いや独白というよりも、心中の考えをそのまま声に現わしているものらしい。そういう饒舌り方も世にはある。相手が耳を貸そうと貸すまいと、また何と感じようと、一切お構いなしに、気の置けない親しい者が前にいるだけで満足して、やたらに饒舌り続ける。それは一種の精神的嘔吐だ。平素は至って無口だが、アルコールのせいで頭脳の平衡が破れると、何かの機縁で内生活の鬱積を吐き出すようになる。この場合、胃袋に停滞してるものを吐き出すために、喉に指先をつき込むような、そんな無理は少しも行なわれない。嘔吐の機縁となるものは、ただ自然の情勢である。こちらの何もかもを受け容れてくれる、遠慮のない、親しみのある顔が、静に微笑んでいてくれれば、それでよい。日向ぼっこをしてるうちにふとむかむかとして、げぶりとやるようなものだ。だから、ふだん無口な村尾がやたらに饒舌ってるとしても、別に不思議ではないが、その饒舌の機縁となった中江の顔が、やがていろんな変化を示してきたのは、注目に価する。初め彼の顔は、穏かにさしてる日脚のようなもので、村尾の精神的嘔吐物を静に受け容れていたが、中途から、次第に能動的な尖端を示すようになった。深く眉根を寄せる、耳を傾けながら空間を凝視する、煙草の吸口を指先で揉みつぶす、唾液をのみこんで唇をかむ、或は、ぼんやり天井を見上る、手先で後頭部をもんでみる、なま欠伸をのみころす、眼をつぶって何か遠いものを考える、など、ひどく注意の濃淡と興味の深浅とを示して、そしてその金縁の近眼鏡は常に光っている。然しそれは勿論、他意あってのことではなかった。内部から酔っていくたちの者には用心の必要は少いと、前に述べておいたが、そればかりでなく、中江と村尾との間には、互に用心しなければならないような相対的用件はつゆほどもなかったし、彼等の様子が明かに示しているように、二人は多年の知友で、偶然落合って「一杯やる」ことになったまでである。そして友人同士の「一杯やる」ということは、その時の調子で、無限の延長をもつ。
この場合のその延長を辿るにほ、先ず、村尾の饒舌を跡づける必要がある。ところが、酔った人間の饒舌などは、そのまま文字に写せるものではない。歯でかみ砕かれて胃袋で半ば消化された嘔吐物を描写することは、至難の業であるが、まして、精神的嘔吐物に至っては猶更だ。以下暫く、筆者の多少の手加減と省略と補遺とを加えて、村尾の饒舌を少しまとめてみよう――
四ヶ月に亘る病院生活のなかで、一番多く考えたのは、自由ということだった。病院生活は、牢獄生活と変りはない。殊に二度も死にかけた僕のような重症患者には、その感じがなお強い。法律の監視よりも医学の監視は、科学的なだけに一層厳重だ。病院で監視人としての待遇を受けていると、肉体的罪人という感銘を受ける。法律の対象は精神的罪人だが、医学の対象は肉体的罪人だ。無辜な肉体の所有者が精神的罪人として取扱われることと、無辜な精神の所有者が肉体的罪人として取扱われることと、どちらがより多く苦痛だと思うか。前者の方がより多く苦痛だろうと言う者は、人間の慾望を解しない抽象論者だ。絶対安静とグラムで測った食料とを強要されて、ベッドに寝ている時に、僕はミイラのことを想った。博物館や医科大学でミイラを見たことがあるが、よくああ冷静な顔付をしていられたものだ。永遠に自由を奪われた彼等には、最も深刻な苦痛の表情があって然るべきだ。どいつも、本当にミイラらしい顔付のものはない。が僕だって、本当に病人らしい苦脳の表情はしていなかったかも知れない。それは、回復後の自由を空想してごまかしてたからだ。この自由の空想のごまかしがなかったら、例えばミイラは、どういう気持だろう。入院したまま死んでゆく者は、一体どうなんだ。僕の病院でも、幾人も死んだ。獄死だ。不幸な人々だ。僕は幸に退院出来た。この点では医学に感謝する。が要するに、刑期が満ちたのだ。刑期が満ちた囚人は、空想していた自由を現実に味う。がその現実の自由は、何と異様なものであることか。
自由というものは、一つのまとまったものではなかった。それは無数のものに分裂する。行動の自由、呼吸の自由、思考の自由、空想の自由、その他、身体の内外ともに四方八方へ動くことの自由だ。街路を歩いていて、自分の四通八達の自由に呆れ返って、ふと空を仰ぐと、ちっぽけな見すぼらしい空に電線が幾筋も引張られている。早朝の薄暗い頃、林の中に行くと、そんな風に蜘蛛の糸が引張られていることがある。がこの街路の蜘蛛の糸は、何と煤けた不気味なことだろう。古ぼけて、そのくせ始終何か呟いている。声には出さないが、その線の内部で、何かぶつぶつ云ってるじゃないか。それを、屋根は首垂れ窓は眼を見開いて、壁は白痴のように没表情な面で、ぼんやり眺めている。感覚遅鈍だ。その中を、地べたにくっついて、電車や自動車の車輪が、めまぐるしく廻転している。永遠の廻転。円に初め終りがないというのは真理だ。がこの真理を利用してる者よりも、利用していない者の方が忙しそうなのは不思議だ。忙しそうな顔、忙しそうな足、疲れたのや元気なのが、尽きることなく往来している。皆何かしら目的を持っている。それらの目的の方向が、あらゆる方面に交錯して、網の目を拵えている。蜘蛛の巣よりも、もっと細かな複雑な網の目だ。その中で僕は深い孤独を感ずる。自由だということは、その複雑な蜘蛛の巣のどの線にも該当しないということだ。そして、蜘蛛のいない蜘蛛の巣を見出すくらい淋しいことはない。僕は孤独で淋しい。空中に無気味な電線の糸を張り渡した蜘蛛は、どこにいるのか。歩道に目的方向の細かな巣を張りつめた蜘蛛は、どこにいるのか。どこにも見出せない。ただ、蜘蛛の巣に露の玉が光るように、きらきら光るものがある。宝石や金銀細工物や、金貨を直接連想させる紙幣などだ。紙幣はちらと姿を見せるだけだが、他のものは、時計屋の店先や宝石商の窓口に、薄い硝子越しに並んでいる。すぐ手の届くところにある。一寸手を差伸べさえすればよいのだ。「惜しいなあ!」この気持は君にも分るだろう。欲しいのではなくて、惜しいのだ。今俺のものにしなかったら、誰かのものになるだろう。誰かが買い取るか盗みとるかするだろう。人は多くの場合、必要以上に買ったり盗んだりする。本当に欲しいよりも、より多く惜しいのだ。慾だ。危いぞ、と自由な僕は考えたものだ。
そういう慾は、自由に買物の出来る君にはよく分るまい。が君のところには、菓子折などを貰うことが屡々あるだろう。それを一月に一度か二月に一度ほどだと仮定し、そして平素ひどく粗食しているものと仮定してみ給え。僕のところは実際それなんだ。そこで、例えば洋菓子を一箱貰ったとする。蓋を開くと、舌の先にとろりとしそうな甘ったるいもので飾り立てたやつが、幾種類か並んでいる。一種顆でないのが不都合だ。この点で、羊羮だとかカステーラだとかモナカなどの菓子折は、道徳的に出来ている。一切《ひときれ》つまめば、それ以上の慾心を人に起させない。が幾種類かの洋菓子は、それぞれに味覚をそそる。どの種類のものも一つずつ食べてみたくなる。而も形が大きい。そして胃には有害だ。必要以上に有害なものを食べる。これが慾でなくて何だ。洋菓子は宝石と類似の商品だ。宝石にまで手が出ない者は、一箱の洋菓子の各種類をつまんでみたくなる。洋菓子を食い飽きてるほどの者は、各種の宝石を一通り具えてみたくなる。慾にも階級がある。
洋菓子をもろくに食えない身分でありながら、僕は、一つでいいから宝石の指輪が欲しかった。それもつまらないものではいやだ。すばらしい真珠か、小さくとも質のよいダイヤかだ。その指輪のケースをひそかに懐にしのばしていって、何気なく彼女の前に差出すのだ。彼女はあけてみてびっくりする。うわずって片方少し斜視の眼が、キリストを見上げるマリアのような眼付になる。白粉やけのした蒼白い頬に曙の色がさす。そして静に指輪を僕の方に押し戻して、こんなことをして頂いてはわるいと云う。あなたのお家の事情もよく分っている、こんな無駄なことをなさるより、お母さんを何か喜ばしてあげなすった方がよい、あたしはもうお志だけで充分だ、とそんなことをしみじみと云う。それを僕は無理に受取らせる。そしてしまいに、二人とも口を噤んで涙ぐむ……。
甘ったるいのは当然だ。僕はある女に――芸妓に――惚れこんでいた、或は恋をしていた。芸妓に惚れるなどは、ブールジョアのすることらしいが、こればかりは理屈ではいかない。独身者の生理的必要を満すには、いくらも安価な方法がある。然し方法を超越したところに、恋愛の存在理由がある。僕は色慾と食慾とを同一だと考えている。生理的必要からくる色慾以外に恋愛が存在するのは、生理的必要からくる食慾以外に調味法が存在すると同様だ。美意識や味覚は生存の必要条件ではない。それらは凡て慾望の上に生長する。病院で僕は、生命を維持するのに、幾グラムかの流動食で充分だったし、体力を回復するのに、僅かな粥と一汁一菜とで足りた。がその必要なだけの食物は、非常な苦痛だった。寝ながら、退院後のあらゆる美食を空想して、表にまで拵えたものだ。ただその空想を実現することは、経済状態が許さなかった。が慾望は消えなかった。鶏卵と牛肉鍋くらいが家庭での最上等の御馳走だった僕は、市内の種々の料理屋のことを、粗末な餉台に向いながら空想したものだ。そんな時僕の顔は、きっと陰鬱な影に蔽われたに違いない。僕の回復を喜んでくれてる母の顔も、やがて陰鬱になって、視線が重く下に垂れ、口も重くのろくなる。顔面の若さは主として眼付と言葉とにあるものだが、その二つが力を失ってくると、五十歳を越してる母はひどく老けてしまう。苦労を続けてる母が、気の毒になってくる。お母さん、こんど春日《かす
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