の真理を利用してる者よりも、利用していない者の方が忙しそうなのは不思議だ。忙しそうな顔、忙しそうな足、疲れたのや元気なのが、尽きることなく往来している。皆何かしら目的を持っている。それらの目的の方向が、あらゆる方面に交錯して、網の目を拵えている。蜘蛛の巣よりも、もっと細かな複雑な網の目だ。その中で僕は深い孤独を感ずる。自由だということは、その複雑な蜘蛛の巣のどの線にも該当しないということだ。そして、蜘蛛のいない蜘蛛の巣を見出すくらい淋しいことはない。僕は孤独で淋しい。空中に無気味な電線の糸を張り渡した蜘蛛は、どこにいるのか。歩道に目的方向の細かな巣を張りつめた蜘蛛は、どこにいるのか。どこにも見出せない。ただ、蜘蛛の巣に露の玉が光るように、きらきら光るものがある。宝石や金銀細工物や、金貨を直接連想させる紙幣などだ。紙幣はちらと姿を見せるだけだが、他のものは、時計屋の店先や宝石商の窓口に、薄い硝子越しに並んでいる。すぐ手の届くところにある。一寸手を差伸べさえすればよいのだ。「惜しいなあ!」この気持は君にも分るだろう。欲しいのではなくて、惜しいのだ。今俺のものにしなかったら、誰かのものになるだろう。誰かが買い取るか盗みとるかするだろう。人は多くの場合、必要以上に買ったり盗んだりする。本当に欲しいよりも、より多く惜しいのだ。慾だ。危いぞ、と自由な僕は考えたものだ。
 そういう慾は、自由に買物の出来る君にはよく分るまい。が君のところには、菓子折などを貰うことが屡々あるだろう。それを一月に一度か二月に一度ほどだと仮定し、そして平素ひどく粗食しているものと仮定してみ給え。僕のところは実際それなんだ。そこで、例えば洋菓子を一箱貰ったとする。蓋を開くと、舌の先にとろりとしそうな甘ったるいもので飾り立てたやつが、幾種類か並んでいる。一種顆でないのが不都合だ。この点で、羊羮だとかカステーラだとかモナカなどの菓子折は、道徳的に出来ている。一切《ひときれ》つまめば、それ以上の慾心を人に起させない。が幾種類かの洋菓子は、それぞれに味覚をそそる。どの種類のものも一つずつ食べてみたくなる。而も形が大きい。そして胃には有害だ。必要以上に有害なものを食べる。これが慾でなくて何だ。洋菓子は宝石と類似の商品だ。宝石にまで手が出ない者は、一箱の洋菓子の各種類をつまんでみたくなる。洋菓子を食い飽きてるほどの者
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