獄生活と変りはない。殊に二度も死にかけた僕のような重症患者には、その感じがなお強い。法律の監視よりも医学の監視は、科学的なだけに一層厳重だ。病院で監視人としての待遇を受けていると、肉体的罪人という感銘を受ける。法律の対象は精神的罪人だが、医学の対象は肉体的罪人だ。無辜な肉体の所有者が精神的罪人として取扱われることと、無辜な精神の所有者が肉体的罪人として取扱われることと、どちらがより多く苦痛だと思うか。前者の方がより多く苦痛だろうと言う者は、人間の慾望を解しない抽象論者だ。絶対安静とグラムで測った食料とを強要されて、ベッドに寝ている時に、僕はミイラのことを想った。博物館や医科大学でミイラを見たことがあるが、よくああ冷静な顔付をしていられたものだ。永遠に自由を奪われた彼等には、最も深刻な苦痛の表情があって然るべきだ。どいつも、本当にミイラらしい顔付のものはない。が僕だって、本当に病人らしい苦脳の表情はしていなかったかも知れない。それは、回復後の自由を空想してごまかしてたからだ。この自由の空想のごまかしがなかったら、例えばミイラは、どういう気持だろう。入院したまま死んでゆく者は、一体どうなんだ。僕の病院でも、幾人も死んだ。獄死だ。不幸な人々だ。僕は幸に退院出来た。この点では医学に感謝する。が要するに、刑期が満ちたのだ。刑期が満ちた囚人は、空想していた自由を現実に味う。がその現実の自由は、何と異様なものであることか。
 自由というものは、一つのまとまったものではなかった。それは無数のものに分裂する。行動の自由、呼吸の自由、思考の自由、空想の自由、その他、身体の内外ともに四方八方へ動くことの自由だ。街路を歩いていて、自分の四通八達の自由に呆れ返って、ふと空を仰ぐと、ちっぽけな見すぼらしい空に電線が幾筋も引張られている。早朝の薄暗い頃、林の中に行くと、そんな風に蜘蛛の糸が引張られていることがある。がこの街路の蜘蛛の糸は、何と煤けた不気味なことだろう。古ぼけて、そのくせ始終何か呟いている。声には出さないが、その線の内部で、何かぶつぶつ云ってるじゃないか。それを、屋根は首垂れ窓は眼を見開いて、壁は白痴のように没表情な面で、ぼんやり眺めている。感覚遅鈍だ。その中を、地べたにくっついて、電車や自動車の車輪が、めまぐるしく廻転している。永遠の廻転。円に初め終りがないというのは真理だ。がこ
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