どよりも、更にすぐれた所がある。朝廷の宗廟たりし太廟の後ろで、多少の時間を持つ散歩者は、一度は必ず足を運んでみるがよい。そこの、柏樹の大木のもとの粗末な卓子に倚って、粗末な茶をすすっていると、精神の疲労はたちまち癒えるし、元気な者は恋を語ってもよかろう。鳩の羽音に驚いて立上れば、低い石塀を越して、堀の向う、旧紫金城の城壁下の人通りも少い広場には、看相を業とする老人が机を据えており、その横では、地面に設けられた輪投遊びを貧しげな人々が楽しんでいる。
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前門外という言葉は、北京旅行者にはただ遊里と響くことが多い。然しここに、支那の富有な老舗は軒を並べている。それら老舗の奥深さと商品の豊富さとは驚嘆に価する。例えば毛皮商の店を訪れてみれば、あらゆる動物の毛皮があり、数百円数千円の豪華品が、幾つもの広間の四壁に処狭きまでに掛け並べてある。また或る楽屋には、高価な六神丸が一杯つまってる箱の横に、玉容丸と称する洗顔用の秘法練薬の箱があり、おしゃれの者には一個六銭で売ってくれる。
前門外は元来、こうした老舗の町である。その側に遊里があるが、これは固より富有な街区への付属物である。遊里が付属してるばかりではない。前門外を少し出れば、日本人から俗に盗坊市場と云われてる安物市場のある、天橋一帯の貧民街があり、更に他方には、琉璃廠一帯の骨董街がある。
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北京には高級な支那料理屋が多く、支那各地の料理法まで味わるること、上海と好敵手である。その料理屋を一々訪れて歩くには、なまなかの財布では持ちこたえられない。ただこれらの料理屋は、上海のそれより綺麗であるばかりでなく、客が多くても比較的静かなのが特長である。無遠慮な外国人の客が少い故であろうか、或は北京人が物静かな故であろうか。
雑沓を極めた東安市場の中の小酒家などでも、珍味が味わえる謂わば高級小料理でありながら、その中はわりに静かである。ここにはまた紹興老酒の高級品があり、左党の喜ぶところであるが、それでいて喧騒な人声は少い。
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輔仁大学はローマ教皇庁に属する大学であるが、ここの女学生は幸福そうである。恭親王邸趾の美しい錦華園を持ち、教室にも宿舎にも王邸の建物がそのまま使用されている。男の学生はとにかく、女の学生にとっては、こうしたところで勉強することによって、一種の心情の豊かさが与えら
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