支那第一と解すべきであろうか、或は好晴な日が続く故と解すべきであろうか。少しく風の日には、やはり埃が舞い立ち、人の靴は白くなり、喉はからからになる。それが、春頃の紅塵万丈の日には、濃霧以上に視界を遮り、自動車は停止するという。
 ところで、斯かる都市を、如何に評すべきであろうか。さまざまなものを豊富にしっくりと抱擁してる都市、そして中央に輪奐の美を誇る幾多の殿堂が聳え、楽しい遊歩場が広く展べられてる都市、それは観賞の対象としては実に高価であるが、近代都市の観念から見れば、その機能に何か欠けたもの或は鈍ったものが感ぜらるる。全体の雰囲気には、恐らく今次事変の影響が多いであろうが、都市の生理そのものについては、別個の批評も成り立とう。
 北京のイメージを延長してゆく時、或る人間像が眼に浮ぶ。教養もあり富有でもあり、その上、古い文化的伝統と社会的伝統とを身につけてる人々、そして今は静かな余生を楽しんでる人々、そうした人間像なのである。私はこれを支那の上層階級にも見る。
 茲にいう上層階級とは、支那流に解釈すべきである。成り上りの軍閥の属を指すのではない。古来支那では官吏は一流の文化人であった
前へ 次へ
全12ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング