は、北京全市を翼下に納むるの概があり、周囲に広い公園地帯をめぐらしている。外城もまた広大な植林地のなかに、天壇の紫瓦朱壁の堂宇が聳えている。市内を歩いて、少しく視野のきく処に出れば、この二つのいずれかがすぐ目につく。
この堂宇、黄金色の甍の屋翼と、紫色の甍の屋翼と、それを支える朱柱朱壁とは、五百年以前から今に至るまで、その勢威を保ち続けている。西太后の栄華を誇る郊外万寿山の建造も、この勢威のなかでなされているし、欧米資本による燕京大学や輔仁大学の建物も、この勢威を無視することは出来なかった。
ところで、天壇は市の殷賑地区から遠い一隅にあるが、紫金城は市の中央にあって、その周囲にはまた至るところ、楽しい散歩場所が開かれている。中央公園の柏樹の木影には、無数の卓子と椅子とが並んでいるし、太廟の柏樹の林には、野生の鷺が群れているし、中南海園の楊柳の小枝は、広い蓮池の周辺にそよいでいるし、北海公園の喇嘛の白塔の付近には、さまざまの小記念物が散在しているし、景山の頂からは、全市の大観が指呼のうちに望み得られる。
こうした地域を中心にして、市の街路は東西か南北かの方向に整然と開かれ、大通りには槐の並木がある。そしてこの整然たる街衢のなかにあっては、あらゆるものが落着いた平穏な相貌を示している。目貫の大通りたる王府井大街に東安市場があるのも、少しも不思議に思われず、その雑沓は百貨店内のそれに似寄って、而も上海の百貨店内のような喧騒さは持たない。前門外の老舗には、それぞれ専門の豪華な商品が豊富に並んでいるが、店員のみいて客の姿はめったに見えない。琉璃廠の骨董店は、狭い店先から次々に小室が続いてその奥が知れないほどであり、一室毎に店員が戸を開いて電灯をつけてくれる。天橋の貧民街や安物市場にあっても、目につくのは人間の群というよりも人影の群である。固有の料理法や各地の料理法を伝え紹興老酒の古甕を備えてる料理屋も、上海や南京のそれどころか、済南のそれよりも一層人声が少く、然し客は多い。京劇の芝居は大抵満員で、よい座席はなかなか取れない。各国使館地域はひっそりしていて、番兵の表情は、上海や天津に於けるような鋭さがないばかりか、至って退屈げである。夜間は門扉を閉してしまう城壁も、南京のそれのような厳しさは持たない。この北京の秋は、世界一のものと云われている。然しそれは、もの静かな秋で、支那第一と解すべきであろうか、或は好晴な日が続く故と解すべきであろうか。少しく風の日には、やはり埃が舞い立ち、人の靴は白くなり、喉はからからになる。それが、春頃の紅塵万丈の日には、濃霧以上に視界を遮り、自動車は停止するという。
ところで、斯かる都市を、如何に評すべきであろうか。さまざまなものを豊富にしっくりと抱擁してる都市、そして中央に輪奐の美を誇る幾多の殿堂が聳え、楽しい遊歩場が広く展べられてる都市、それは観賞の対象としては実に高価であるが、近代都市の観念から見れば、その機能に何か欠けたもの或は鈍ったものが感ぜらるる。全体の雰囲気には、恐らく今次事変の影響が多いであろうが、都市の生理そのものについては、別個の批評も成り立とう。
北京のイメージを延長してゆく時、或る人間像が眼に浮ぶ。教養もあり富有でもあり、その上、古い文化的伝統と社会的伝統とを身につけてる人々、そして今は静かな余生を楽しんでる人々、そうした人間像なのである。私はこれを支那の上層階級にも見る。
茲にいう上層階級とは、支那流に解釈すべきである。成り上りの軍閥の属を指すのではない。古来支那では官吏は一流の文化人であった。地方の土豪劣紳にも、都市の老舗にも、学府の長老にも、この文化人の後裔は多く、その伝統は濃い。彼等は好人兵に劣らずという感懐を持ち、成り上りの軍閥に対する反感も強い。然し政治的には既に無力であり、或は逃避して、僅かな民心の信望を楽しみに、静かな生活を送っている。そして彼等の思想の根底には、支那人は結局支那の伝統に立還るという信念が横たわっている。支那の伝統とは、見方によっていろいろあろうが、ここではただ漠然と支那的性格というほどのものとなる。
支那的性格というものは、固定的なものであろうか、或は新たな発展をなし得るものであろうか。ここにまた、新東洋文化についての一問題がある。
支那人と個人的に交際する時、大抵の日本人は、こちらがまいってしまうという。殊には、前述の意味の上層階級の人々と交際する時、大抵の日本文化人はまいってしまう。何かしら文化的な社会的な修練の乏しさが、自分のうちに意識される。この意識は重要な反省の種とはなるが、然しそれに負けてはならないのである。それに打勝つだけの別個のものを所有しなければならない。支那の若いインテリ層は、自分の問題として、己が民族の問題として、こ
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