いか。
 単にイデオロギーばかりではない。広い意味で、凡て理想などというものもそうだ。理想を道具として使用してるうちはよいが、理想に囚われると外皮の硬化が将来される。林房雄の「青年」などは、素朴な思念に救われているが、あれがもっと年をとり、もっと凝り固まると――云いかえれば、詩が観念になると、案外、象皮病にかかりそうな恐れがないでもない。ましてや、公式的作品については云うまでもあるまい。
 と、ここまでくると、この論者、あらゆる精進を、すべて排斥するかに見える。しかしそうなってくると、例えば、広津和郎の「故国」など、最も立派なものと云わなければならないだろう。労を惜しんだ取扱い方、作意の沈潜の足りなさ、ディレッタンチズムの匂いのする筆致、それが、却って、あらゆるポーズから解放されたものと云わなければならないだろう。
「誤解しちゃあ困る。」と彼は叫ぶ。「君は、日本画と洋画とのそもそもの出発点の相違を、はっきり区別しないものだから、そんなめちゃなことを云うのだ。」
 これはまた、おそろしくめちゃな論理の飛躍をやってのけたものだ。
      *
 日本画は元来、物の輪廓を取扱うものだし、洋
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