傍人の言
豊島与志雄
「文士ってものは、こう変に、角突きあってる……緊張しあってるものだね。」
そうある人が云った。――この人、長く地方にいて、数ヶ月前に東京へ立戻ってきたのであるが、文学者や画家に知人が多く、といって自分では何にも書きも描きもしないで、少しばかり教師をして、多くは遊んだり読んだり観たりしてるのである。実際的には余り役に立たない存在であるが、いろんな点で、私が敬愛している友人なのだ。――それが、いきなり右のようなことを云い出したのである。私には、とっさに、理解できなかった。
聞いてみれば、実は、或る記念会のことなのである。――三四十人集まった会合だが、そこに来てる文士たち、互に知り合いの仲で、挨拶をしあったり話をしあったりしていたが、その態度がおかしいというのだ。煙草の吸い方、口の利き方、笑い方、眼のつけ方……そのどこにも、ほんとに打ち解けた朗かさがなくて、わきから見てると、お互に緊張しあってる……俗に云えば、同じ職業の女同士のように、角突きあってるとしか見えない……。
「それでいて、個人的に逢えば、誰もみな好人物だし、酒をのめば、しめくくりのないだらしなさをさらけだすんじゃないか。それが、公の席上で顔を合わせると、好人物同士が、だらしのない者同士が、お互に緊張しあってるんだから、僕たちから見ると、おかしいんだ。」
そう云わるれば、私にだってよく分る。各方面の人々が集まってる場所では、文学者は最も率直な――無遠慮無作法だと云えるほど自由な――振舞をなすことが多いのに比して、文学者だけの集合の場合には、実際、一種の冷たい緊張した空気がかもし出されて、体面を保つというのか、気兼ねをするというのか、隙をねらいあってるというのか、とにかく、お互いに襟をつくろっておるという風になりがちである。会場から外に出て、初めてほっとする者が、いくらもあることだろう。
それを、文学者の非社交性だと一言に片付けることは、妥当でない。文学者にはむしろ、人なつっこい淋しがりやが多いものだ。常住孤高な境地にあるというようなのは少ない。してみると、右のような現象は、ふだん、物を観察したり書いたりしている態度――仕事の上の一種のポーズ――それの不知不識の現れから起るのではあるまいか。顔をつき合せることによって、お互に相手の書いたものを読んでるという気持、転じて、お互に相手か
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