いか。
単にイデオロギーばかりではない。広い意味で、凡て理想などというものもそうだ。理想を道具として使用してるうちはよいが、理想に囚われると外皮の硬化が将来される。林房雄の「青年」などは、素朴な思念に救われているが、あれがもっと年をとり、もっと凝り固まると――云いかえれば、詩が観念になると、案外、象皮病にかかりそうな恐れがないでもない。ましてや、公式的作品については云うまでもあるまい。
と、ここまでくると、この論者、あらゆる精進を、すべて排斥するかに見える。しかしそうなってくると、例えば、広津和郎の「故国」など、最も立派なものと云わなければならないだろう。労を惜しんだ取扱い方、作意の沈潜の足りなさ、ディレッタンチズムの匂いのする筆致、それが、却って、あらゆるポーズから解放されたものと云わなければならないだろう。
「誤解しちゃあ困る。」と彼は叫ぶ。「君は、日本画と洋画とのそもそもの出発点の相違を、はっきり区別しないものだから、そんなめちゃなことを云うのだ。」
これはまた、おそろしくめちゃな論理の飛躍をやってのけたものだ。
*
日本画は元来、物の輪廓を取扱うものだし、洋画は元来、物の面を取扱うものだ。輪廓を取扱うからして、筆勢とか墨色とかが重大な問題となってくる。ところが面を取扱う場合には、何よりもヴォリュームが目指されなければならない。光や色はその次の問題だ。ヴォリュームを取失った洋画は、まずだめなものだ。
「ヴォリュームにじかに迫ってゆくということ、それを文学者がもっと真面目に考えてみないのを、僕は不思議に思うね。少くとも、自然主義に毒されたリアリズムの、本当の進路は、そこにあるんじゃないか。勿論、現実を無視するんならそれまでだけれど……。」
これは、分る人にははっきり分るだろうし、分らない人にはさっぱり分らないだろうところの、謎みたいな論だ。が彼にとっては、如何にもはっきりしてるらしい。思想とか形式とか表現の技巧とかいうようなものは、光や色であって、実体は――現実は、ただヴォリュームだというのである。そして、ヴォリュームにじかに迫ってゆくこと、それを把握しようとするあらゆる努力、それこそ仕事の本質であって、その本質を取失う時には、凡てのことが一種のポーズとなる。
……かも知れない、と私も思う。然しそんな初歩の素朴な議論は、吾々はとうの昔に通
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