はそれが少しも見えなかった。塀が高くて、その婦人の背が低かったのだ。」
 そして結局、其日脱走しなかったのは幸運となり、其後、ヴァイオリンの音にかえて、コントスキーの昂奮的な舞踏曲を相図に、彼は脱走し了せたのである。この恐ろしい脱走計画に、赤い玩具の風船は愉快な思いつきである。アナーキズムの主導者となったクロポトキンにふさわしい話だ。それはボルシェヴィズム的ではなく、どこまでもアナーキズム的だ。ボルシェヴィズムは陰鬱だが、アナーキズムは朗かである。
 頭の禿は、玩具の風船と同じくらいの愛嬌的なものだが、場合によってはひどく不愛嬌になる。或る洒落男が、齢四十歳やそこいらで、頭の真中に銅貨大の禿が出来た。頭髪で隠しても、変にすいて目立つ。いろいろ苦心したあげく、毎日キルク炭を塗るのも厄介なところから、思いきって禿のところに墨で刺青をした。それで当分は安心だったが、やがて、禿が次第に大きくなっていった。刺青はもとの大きさだ。遂には大きな禿の真中に、銅貨大の黒い刺青だけが残った。――話もこうなると、愉快を通りこして悲惨だ。寧ろ禿げざるに如かず。然し禿は世に存在する。
 禿と同様に病気も存在する。筆者は昨年末に、十二指腸潰瘍と十二指腸周囲炎との併発症で、病床に横たわる身となった。いろいろ説明を聞くと、随分厄介な病気らしい。
 ところが、治療の効か養生が行届いたせいか、尼子富士郎医学博士が眼を丸くして驚いたほど、超スピードで快癒していった。全快までにはなかなか時日を要するらしいが、平生の生活状態に復るには僅かな日数ですんだ。
 然るに、この病気の原因は実にはっきりしていた。胃酸過多とか胃腸衰弱とかいうのではなく、単なる飲酒過度だ。爾来、筆者はこう主張する。――「病気は酒ですべきものだ。酒が原因の病気は、酒をたちさえすれば、直ちに快癒する。」
 友人たちのうちで、飲酒家は賛成してくれるが、不飲酒家は笑って相手にしない。
 然し、酒を飲まない者が健康を誇るのは、アイルランド人の誇りと同じである。吾人はユダヤ人虐待の汚点を有する歴史の一頁をも持たない、なぜなら、決してユダヤ人を入国せしめなかったからだ、とアイルランド人は誇らかに云う。
 それは一面の真理をもっているし、妙に人を考えこませはするが、次で愉快な微笑を催させるではないか。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論
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