そんな鼠を食うよりも餓え死をした方がいいと言います。たった八日間に、僕の見ている眼の前で、一万九千匹の猫と、二万三千五百匹の鼠が、ばたばた死んでしまいました。可哀そうな奴等。思い出すと、どうもいけない。あの時の損は五十万弗からでしょうな。」
 これが、或るカフェーでの、或る紳士の話である。まだまだ、同様なヨタが続く。こんなことをすまして書き立てる作者は、さぞ幸福だろう。梅干というものは、梅の木の何方に向いた何番目かの枝の何番目かの実を、何月何日の何時頃にとったものが、最も美味である、などと『南国太平記』のなかで坊さんに饒舌らしてる直木三十五も、さぞ得意だったろう。『馬車』のなかで占筮の講義を長々とやってる横光利一の気持とは、まるで質が違うようだ。
 ヨタは真面目でないところにその面白みがある。がふざけては堕落する。そのかねあいがむずかしいのだ。所謂ナンセンス文学などのうちには、新聞紙に引用されるくらいの愉快なエピソードが、少しは現われてもよかろう。プロレタリア文学などにも、時には愉快な通風孔が必要だ。それは案外強く労働者や農民を惹きつける。飲食の時など、彼等は如何に愉快な話を歓迎することか。而もそれは断じて、被搾取の苦渋な生活からの逃避ではない。
 クロポトキンが、セント・ピーター・ポールの要塞に監禁されてるうち、健康を害して病監に移された機会に、そこを脱走した。その時の話は、余りに有名である。この有名さは、話の愉快さに負うところが多い。脱走計画の万事は、外部の同士チャイコフスキー団によって立案された。「中は大丈夫だ。」というクロポトキンの相図に対して、赤い玩具の風船をあげて「外は大丈夫だ。」という相図をする、そういう約束だった。ところが、「その日は妙なことが起った。玩具の風船は、セント・ペテルスブルグのゴスティナイ・ドフォル近くに、いつもいくらでも売っていた。然るに其日の朝は少しもなかった。ただ一つの風船も見つからなかった。最後にたった一つ、子供の持ってるのを見つけたが、それは古くて飛びそうもなかった。で友人等は眼鏡屋へ駈けこんで、水素を造る道具を買ってその風船に水素をつめたが、やはり飛ばなかった。水素がまだ乾いていなかったのだ。時は迫った。で一人の婦人が、その傘に風船を結びつけて、自分の頭の上に高くかざして、病監の庭の高い塀に沿って道を行ったり来たりした。が私に
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