野に声なし
豊島与志雄

 芸術上の作品は、必ずその作者の心境を宿す。反言すれば、芸術家の心境は、必ずその作品に反映する。
 作者の心境を宿していない作品は、本当の芸術的作品ではない。作品に反映さすべき心境を持たない作家は、本当の芸術的作家ではない。
 作品は作家の心境を多く宿せば宿すほど、本質的に益々芸術品となる。作家は作品のうちに己の心境を多く反映さすればさするほど、本質的に益々芸術家となる。
 或る文が芸術品であるか否かは、そしてまた、或る人が芸術家であるか否かは、右のような心境の問題の如何に在る。
 勿論、茲に云う心境とは、あくまでも心境である。魂の状態及びその世界である。思想とか感情とか意思とかまたは主張とか、そんな種類のものではない。
 人の持ち得る心境には、その広さや深さや方向などに於て、無数の程度と差異とがある。然しながら、一人の人の心境は、その人が本当に生きてゆく限り、或る方向を辿りつつ、次第に広さと深さとを増してゆく。
 心境のそういう進展が、芸術家にとっては最も大切である。その心境に進展のない時、芸術には進歩がない。如何に多くの作をなそうとも、同一の心境に止まっているうちは、本質的に停滞してるのである。
 そういう停滞へ、既成大家は陥り易い。
 多くの物を観、多くの材料を取扱い、多くの作品を書いているうちに、その重複の勢によって、或る一種の型が出来てくる。単に手法の上に於てばかりではなく、芸術家としてまた人としての全体に於て、一の型が出来てくる。
 会社員風、商人風、官吏風、労働者風、その他いろんな型が世にある如く、芸術家風という型も世にはある。然しながら、他のあらゆる型は一の固定的なものであっても宜しいけれど、芸術家という型だけは固定的なものであってはいけない。
 固定した一の型に囚われる芸術家は、物の見方や感じ方や考え方に於て、人生に臨む態度に於て、芸術に対する態度に於て、生々とした処女性を失う。所謂職業芸術とかいう非難は、この処女性の喪失を指す時に於てのみ至当である。
 真の芸術家は、その表現の技巧に於て如何に優れようとも、一方には必ず処女性を持ってるものである。この処女性からこそ、芸術の生々とした溌剌さは生れる。
 処女性を失い一の型に囚われた芸術家は、表現の技巧に如何ほど進歩しようとも、それは外的な機械的な進歩であって、内的の生きた進歩ではない。
 芸術の内容と表現とは一つのものであるというのは、出来上った作品について云われることで、作家について云われることではない。
 内的な進歩なしに、心境の進展なしに、ただ表現の技巧にのみの進歩があり得る。表現の技巧の進歩なしに、内的の進歩が――心境の進展があり得る。芸術家にとって望ましいのは、前者よりも寧ろ後者である。両者かね具わるのは最もよろしい。
 表現の技巧の進歩のみあって、心境の進展のない時、その作家は如何ほど優れた作品を書こうとも、芸術家としての生き方に於ては、既に行きづまっているのである。同じ場所で同じ足踏みを繰返しているのである。
 上手か下手かも勿論問題ではある。然しながら、進んでるか止ってるかは、より多く問題とならなければならない。
 うまい作品かまずい作品かということは、作品としての問題である。よい作品か悪い作品かということは、深い作品か浅い作品かということは、作家としての問題である。
 この作家としての問題は、結局その作家の心境問題である。
 人は或る境地に辿りつくと、その境地に安住したがる。そこに止まっている間は、安全であり安心である。そこから出ることは、肌寒く不安である。
 芸術家も或る心境に到達すると、そこに安住したがる。
 生きるということは、必然的に本来的に、進むことを意味する。一の場所に停止するのは、生きることではない。
 芸術家として生きるには、その芸術的心境が進展しなければいけない。然るに、既成大家になると、一の心境に安住しがちで、その心境を押進めてゆくことを、甚しく億劫がり易い。
 それがいけないのである。
 いけないのは、既成大家ばかりではない。未成大家にも、別のいけなさがある。
 未成大家には、一の心境さえもないことが多い。ただ興味や興奮だけしかないことが多い。
 所謂腰が据らないということはそこから来る。
 芸術家は、芸術家としての魂の腰が据っていなければいけない。物の見方や感じ方や考え方に於て、人生に臨む態度に於て、芸術に対する態度に於て、揺がない心を把持していなければいけない。即ち一つの心境を持っていなければいけない。
 一の心境もないということは、心境に進展のないことよりも、更にいけない。
 一の心境もない作家によって書かれた作品は、完全に芸術品とは云い難い。
 芸術品の持つ感じ、論説や記録や物語などから
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