覧会や音楽会などへ行くことがありました。そして……十一月でしたか――丁度昨年の今頃です――僕は何の気もなく或る音楽会の切符を、妻と二人分だけ前以て買いました。考えてみると、妻が肺炎になってから後二人で出歩くのは、それが初めてだったのです。その前日から丁度、道子――長女の道子が、感冒の様子で少し熱を出していました。然し大したことでもなさそうだし、折角切符まで買ってあるのだからというので、女中によく道子のことを云い含めて、僕達は出かけたのです。音楽会は、ピアノとヴァイオリンとで、演奏者の顔も相当によく揃っていて、可なり成功の方でした。
 その帰り途です。寒い風が軽く吹いて、月が輝っていました。濠に沿った寂しい道を、僕達は少し歩きました。晴着をつけお化粧をしてる妻と並んで歩くのが、僕には変に珍らしく不思議だったのです。暫く黙って歩いていましたが、妻は急に慴えたような声で、「道子はどうしてるでしょう?」と云ったものです。その時、僕の心のうちに、非常な変動が起りました。何かしらもやもやとしたものが消えてしまって、凡てがまざまざと浮んできたという感じです。自分が如何に勝手なことをしていたか、彼女を如何に苦しめていたか、彼女と自分とが如何に遠く離れてしまったか、というようなことを、しみじみと感じたのです。僕の胸は涙ぐましい思いで一杯になりました。僕は低い声で、自分自身に云ってきかせるかのように云いました。
「節子、何もかも許してくれ。僕がみんな悪かったのだ。僕はどんなにお前を苦しめたろう! そしてまたどんなに自分自身を苦しめたろう! 僕の心は誤った方向へ迷ってたのだ。今僕には何もかもはっきり分った。僕はお前を本当に愛してる。あの……沢子さんと交際するのがお前につらいなら、僕はこれから断然交際を止めてしまおう。それが本当なのだ。もう往き来もしなければ、手紙も出すまい。僕はそれを誓う。誓って絶交してみせる。ねえ、これで何もかも許してくれ。節子、二人だけの途を進もうじゃないか。」
 妻は泣いていました。僕も涙ぐんでいました。そして何かに感謝したい心で一杯になっていました。
 僕は後で考えてみて、どうしてその時そう感傷的な心地になったのか、自分でも不思議なくらいです。実際、それから家に帰ってきて、すやすやと眠ってる道子を見出して、ほっと安心した気持で妻と顔を見合した時、僕は自分でも変に気恥かしかったのです。とは云え、その感傷的な心地のうちにこそ、僕の本当の魂があったのかも知れません。
 けれどもそのことから、事情は急に険悪になったのです。宛もそうなるのが運命ででもあるように、一歩々々破綻へ押し進んでいったのです。そして僕自身は、余りにうっかりしていました。
 僕は妻へ誓いはしたものの、どうしても沢子のことを忘れる――心の外へ追い出すことが出来なかったのです。その上、妻と僕との間は、また以前通りの冷たいものになってしまったのです。あの音楽会の晩は、云わば燃えつきる蝋燭の最後の焔みたいなものでした。そのために却って、僕達の間は一層陰鬱になったのです。そして僕はそれを元へ引戻そうとは努めずに、沢子の面影へばかり心を向けたのです。
 僕は妻へ内密《ないしょ》で手紙を書きました。勿論内容は何でもないことばかりを選んだのですが、度数は前より多くなりました。沢子からも年内に一度手紙が来ました。一度は自身で訪ねてきました。そして、神話の原稿も可なり続いたから、正月号から暫く休むという社の意向だと、済まなさそうに僕へ告げました。僕が妙に黙り込んでるので、暫くして帰って行きました。
「神話の原稿も当分いらないそうだから、これで沢子さんとの交渉も絶えるわけだよ。」
 そんな白々しいことを、いくらかてれ隠しの気味もあって、僕は妻へ云ったものです。妻は僕の方をじろりと見て、「そうですか、」と冷淡に云っただけでした。
 それから正月になって、僕は手紙を書いてる現場を妻から押えられたのです。霙交りの風が物凄く荒れてる夜でした。風の音に聞入りながら沢子のことを考えてると、何とも云えない悲愴な気持になって、こまこまと而も要所を外した文句で手紙を書き初めました。その時妻がふいに僕を襲ったのです。恐らく彼女は虫が知らしたとでもいうのでしょう。いつもは子供を口実に早くから寝てしまって、夜遅く僕の書斎へやって来るなどということは、殆んどなかったものです。所がその晩に限って嵐の音に乗じて夜更けに僕を襲った――そういう風に僕は感じたのです。襖の開く気配に振返ってみると、何かを狙いすますような眼付で、足音も立てずに僕の方へ守って来るじゃありませんか。僕は喫驚して……或る神秘的な恐怖を感じて、いきなり立上ったものです。その様子がまた、彼女には異様に思われたに違いありません。彼女は一瞬のうちに凡てを悟ったらしいのです。いきなり書きかけの手紙を掴んで、これは何です? と聞いたのです。僕はどうすることも出来ませんでした。
 それから、痛ましい場面が起りました。妻は口惜し泣きに泣きながら、僕へがむしゃらにつっかかってきました。わざわざ年賀状まで出しておいてすぐに……と云うんです。実は、僕は沢子へ年賀の葉書を書いて、これだけはいいだろうと妻へ見せたのでした。つまらない技巧を弄したものです。それから、妻は僕の手紙の文句を一々切り離して、例えば「この荒凉たる冬のように私の心も淋しい……春の柔かな息吹きを望んでいます……ともすると生活が嫌になります……理解ある友情が人生に於ての慰安です……」などという言葉……前後の文脈にうまく包み込まれてはいるが、僕の切ない心が影から覗いてるような言葉、それだけを一々取上げて、僕を責め立てるんです。次には、音楽会の帰りに自分から誓っておいて! ……あれも私を瞞着するためのお芝居だったのでしょう、と云うんです――その点に彼女は最も力を入れていました。それから始終隠れて逢ったり文《ふみ》をやりとりしていらしたに違いない、などと……。其他、僕は一々覚えてはしません。彼女は恐ろしく興奮していましたし、僕も非常に興奮していました。そして、いきり立った彼女の前に、僕は何という醜い卑怯な態度を取ったことでしょう! 反抗の心がむらむらと起ってくるのを強いて押えつけて、ありもしない涙まで搾り出して、彼女の前に奴隷のように哀願したのです。今後の行いで証《あかし》を立てると誓ったのです。
 其場はそれきりに終りました。僕はそのために、何とか片をつけなければならない事情にさし迫ったのを、はっきり感じました。そして、片をつけるためと称しながら、とんでもない途へ進んでいったのです。
 僕は妻の目を偸んで、沢子へ長い手紙を書きました。――私はあなたへ一切を告白しなければならない、というのを冒頭にして、いつとはなしに彼女を愛していたこと、彼女の面影が自分の心に深く刻みつけられてること、その彼女は、遠くを見つめるような澄み切った眼でいつも自分を見つめていて、理解のあるやさしい心で自分を包んでくれる、晴々とした自由な純潔な少女――この少女[#「少女」に傍点]というのが大切なんです――少女であること、そして、自分は妻と二人の子供まである身でありながら、不自然だとは知りながら、そして妻を愛していながら、どうしても彼女の面影を払いのけ得ないこと、などを長々と書きました。次に、妻との間が気まずくなってることを少し書きました。それから、けれど自分は今長い苦しみの後に、或る晴々とした所へ出られた、危険の恐れなしにあなたと交際し得られる自信がついてる、やがては妻の心も解けて、あなたのお友達になるかも知れないと思う、というようなことを書き、但し当分のうちだけは訪問を止してほしい、そして士官学校宛に手紙を頂きたい、と述べておいて、けれども私の告白があなたに不快ならば、あなたに苦しみをかけるならば、このままお別れするか否かは、あなたの自由にしてほしい、と手紙を結んだものです。
 実際僕は、他愛もないことを空想していたのです。自分の愛を葬ってしまって、彼女と普通の交際を続け、やがては妻をも加えて、三人で親しい友達になる、というのです。そして、士官学校では手紙を自宅へ回送しないで取って置いてくれるものですから、そちらへ手紙を貰うことにしたのです。……それから、僕の心持のうちには、自縄自縛する気もあったでしょうし、凡てを彼女の手中に託して捨鉢になる気もあったでしょうし、其他何だか自分にも分りはしません。
 やがて彼女から返事が来ました。――私は先生をなつかしいやさしい方として、兄のように、叔父のように、……いえやはり先生といった気持で、おしたいしていたのですが、それが、自分の不注意から、奥様の御心を害《そこな》ったのを、しみじみと恥じられ悔いられてなりません。お許し下さいませ。これから御交際を続けるかどうかについては、随分考えましたけれど、先生も危険がないと仰言いますし、私の方も危険なんか感じられませんから、やはりお交りしても差支えないだろうと存じます。奥様を偽ることは悲しいけれど、やはりこれまで通り、先生として親しまして下さいませ。……と云った要領の手紙でした。
 僕はそれを読んで、一種の不満を覚えました。何故かは分りませんが、恐らく僕は、彼女が僕の手紙を読んで、実は私もあなたを恋していました、もう苦しさに堪えきれません、と云ったような返事をくれることと、心の奥で待っていたのでしょう。馬鹿げています。が兎に角、彼女の返事によって、僕は急に前途が開けてきたような気になりました。空想が実際となって現われるかも知れないと思いました。そして僕は二度ばかり彼女へ、輝かしいとか晴れやかとか光明とかいう文字をやたらに使った、若々しい手紙を書いたものです。
 所が、或る晩、妻はまた僕の書斎へ押寄せてきたのです。彼女の様子で、僕はただごとでないと直様察しました。果して彼女は、糞落着きに落着き払った態度で、僕へ肉迫してきました。
「あなたにこの字がお読めになりまして?」
 そう云いながら彼女は、一枚の新らしい吸取紙を差出しています。それを見ると僕は息がつまりそうな気がしました。沢子様[#「沢子様」に傍点]という僕の文字がありありと現われてたのです。
 呪われたる吸取紙哉です。吸取紙からいろんな秘密が暴露することは、西洋の小説なんかにはよくありますね。レ[#「レ」に傍点]・ミゼラブル[#「ミゼラブル」に傍点]にも吸取紙が重大な役目をしてる所がありましたね。実際秘密な手紙を書く折には、ペンでなしに毛筆に限ります。慌ててる余りに、吸取紙へまでは気がつきませんからね。而も日本の手紙のように、宛名を最後に書く場合には、その名前が一番吸取紙に残り易いものです。おまけに封筒までついてる始末です。
「私こんなに踏みつけにされて、そして捨てられるまで待つよりは、自分から出て行ってしまいます。」
 そう云ったきり、妻は石のように黙り込んでしまいました。僕はもうすっかり狼狽して、哀願や威嚇や誓いやを、自分で何を云ってるか分らないでくり返しました。僕の言葉が終ると、彼女は冷やかに云いました。
「見事に証《あかし》をお立てなさいましたわね。」
 その時僕はかっとなったものです。突然調子を変えて云ってやりました。
「じゃあどうしようと云うんだ? こんなに云っても分らなけりゃ、勝手にするがいいさ。ただ一言云っておくが、変なことでもしたら、もう二度と取返しはつかないから、そう思ってるがいい。」
「私にも考えがあります。」
 それだけの言葉を交わしてから、僕達はほんとに石のように黙り込んでしまったのです。僕はもう万事が終ったという気がしました。
 然しその時、僕はまだ分別を失いはしませんでした。いろんなことを正しく……そうです、正しく考え廻したのです。妻は僕を愛していたのです。僕は結婚してからも何回か、つい友達に誘われて、待合なんかへ泊ってきたこともありますが、そんな時妻は、軽い嫉妬をしたきりで、大した抗議も持出しませんでした。然し此度は、彼女は僕の心を他の女に奪われたので
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