―一つのことが頭に引っかかってきた。彼は云った。
「僕はいくら考えても分らない、話を聞いても分らない、まるで謎みたいな気がするが……実際僕には謎のように思えるんだ。」
「どんな謎?」
「宮原さんと君との関係さ。」
「あらいやよ、関係だなんて。ただのお友達……先生と……お弟子といったような間じゃありませんか。」
「今じゃないよ。あの時……宮原さんが奥さんと別れた時に……。」
「だって、宮原さんには二人もお子さんがおありなさるでしょう。」
「それだけの理由で?」
「ええ、それだけよ。」
が彼女はその時ふいに、耳まで真赤になった。昌作は驚いてその顔を見つめた。けれど次の瞬間には、彼女はまた元の清澄な平静さに返っていた。彼は恥かしくなった。そして泣きたいような気持になった。
「もうそんな話は止そう。」と彼は呟いた。
「ええ、何か面白い話をしましょうよ。……そう、私春子さんを呼んでくるわ。私ね、あの人に何もかも話すことにしてるの。あの人と宮原さんが、私の一番親しいお友達よ。……そりゃあ気の毒なほんとにいい人なのよ。」
そう云いながら彼女は立上った。昌作はぼんやりその後姿を見送った。極めて善良らしくはあるがまた可なり鈍感らしい春子と、どうして沢子がそう親しくしてるのか、昌作には不思議な気がした。二人は全く似つかわしくなかった。同じ家に二人きりで働いてるということと、春子が殆んど一人でその喫茶部全体の責任を負わせられてるということとだけでは、二人が親密になる理由とはならなかった。強いて云えば、表面何処か呑気な楽天的な所だけが相通じていたけれど、それも春子のはその善良さから来たものらしいのに、沢子のはその理知から来たものらしかった。――昌作は、やがて奥から沢子と一緒に出て来た春子の、一寸見では年配の分らない、変に厚ぼったい、にこにこした顔を、不思議そうに見守った。
「佐伯さん、お感冒《かぜ》ですって?」
眼の縁で微笑しながら春子はそんなことを云った。
「ええ、少し。」
「それじゃ、お酒よりも大根《だいこ》おろしに熱いお湯をかけて飲むと、じきに癒りますよ。」
昌作が黙ってるので、沢子が横から口を出した。
「ほんとかしら?」
「ええほんとですよ。寝しなにお茶碗一杯飲んでおくと、翌朝《あさ》はけろりとしててよ。」
「あなた飲んだことがあって?」
「ええ。感冒をひくといつも飲むんですの。でも、利くことも利かないこともあって……それは何かの加減でしょうよ。」
そう云って春子は眼の隅に小皺を寄せて、如何にも気の善さそうに笑った。
「じゃあ何にもならないわ。私葡萄酒をお燗して飲むといいって聞いたけれど、それと同じことだわ。」
それから二人の話は、宛も暫く振りで逢った間柄かのように、天気のことや、風のことや、頭の禿のことや、紅茶のことなど、平凡な事柄の上に飛び廻った。昌作は自分自身を何処かに置き忘れたような気持で、黙り込んでぼんやり聞き流していたが、二人の滑かな会話がいつしか心のうちに沁み込んで、しみじみとした薄ら明るい夢心地になった。そして強烈な洋酒の杯をちびりちびりなめてるうちに、心の底に、薄ら明りのなかに、或る影像が浮き上ってきた。その意外な不思議な幻想に自ら気付いたら、彼は喫驚して飛び上ったかも知れないが、然しその時その幻想は、彼の気持にとっては如何にも自然なものだった。
――彼は、最後の病気をする少し前の母の姿を思い浮べた。狭い額に少し曇りがあって、束髪の毛並が妙に薄く見えるけれど、ふっくらした皮膚のこまやかな頬や、少し歯並の悪い真白な上歯が、いつも濡いのありそうな唇からちらちら覗いてる所や、柔かにくくれてる二重※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]や、厚みと重みとのある胸部などは、三十四五歳の年配とは思えないほど若々しかった――と共に、三十四五歳の豊満な肉体を示していた。彼女はいつも非常に無口で、そして大変やさしかった。じっと落着いていて、愁わしげに――でも陰気でないくらいの程度に、何かを思い沈んでいた。そのくせ女中や他人なんかに対しては極めててきぱきしていて、型で押すように用件を片付けていった。家の中を綺麗に掃除することが好きだった。朝晩は必ず仏壇に線香を焚いて、長い間その前に坐っていた。ごく小さな仏壇には、ささやかな仏具と共に古い位牌が三つ四つ並んでる中に、少し前方に、新しい粗末なのが一つあった。彼はその位牌の文字が気になって、じっと覗き込んだが、どうしても分らなかった。そのうちに、何処からだかぼっと光がさしてきて、文字が仄かに見えてきた。木和田五重五郎[#「木和田五重五郎」に傍点]と誌してあった。彼はその名前に見覚えがあるような気がしたが、どうしてもはっきり思い出せなかった。母は悲しい眼付をして、なおじっと坐っていた。黄色っぽい薄ら明りがその全身を包んでいた。けれど、今にも次第に暗くなってきそうだった。眼に見えるようにじりじりと秋の日脚が傾いていった。冷々とした風が少し吹いて、さらさらと草の葉のそよぐ音がした。木和田五重五郎[#「木和田五重五郎」に傍点]の位牌が、野中の十字架のように思われた。雑草の中に一つぽつりと、灰白色の円いものが見えた。野晒しの髑髏だった。その上を冷たい風が掠めていった。彼は堪らなく淋しい気持になって、我知らず口の中で繰返した。――野ざらしを心に風のしむ身かな[#「野ざらしを心に風のしむ身かな」に傍点]。――それをいくら止めようとしても、やはり機械的に繰返されるのだった。一生懸命に止めようと努力すると、気が遠くなって野原の真中に倒れた。胸がまるで空洞になって、風がさっさっと吹き過ぎた。自分の魂が髑髏のようになって、胸の中に……野の中に転っていた。晩秋の日はずんずん傾いていった。大きな影が徐々に落ちてきた。風が止んで非常に静かになった。彼は立ち上ってまた歩きだした。胸がどきどきして、頭がかっと熱《ほて》っていた。眼が眩むようだった。細目に見開いてみると、すぐ前を厚い白壁が遮っていた。長年の風雨に曝されて、薄黒い汚点《しみ》が這い廻ってる、汚い剥げかかった壁だった。その上を夕暮の影が蔽っていた。影の此方に四角に窓硝子があって、ぼんやり人影が写っていた。それが堪らなく淋しかった。彼は眼を外らした。表に面した窓から、小さな銀杏の並木の梢が見えていて、散り残った黄色い葉が五六枚、街路の物音に震えていた。
彼が気がついてみると、沢子と春子とは、先程から話を途切らして、彼の顔をじっと見てたらしかった。彼は何だか顔が挙げられなくて、首垂れながら太く溜息をついた。
「熱でもおありなさるんじゃないの?」と春子が云った。
彼は無意識に手を額へやってみた。額が熱くなって汗ばんでるのを感じた。
「なに、煖炉の火気を少し受けすぎたんだろう。何でもないよ。」
「でも変に苦しそうなお顔でしたよ。」
「一寸夢をみたようだった……。」
「夢?」
「と云って悪ければ……いややはり夢だよ。」
「おかしいですわね、眼をあいてて夢をみるなんて。」
「白日夢ってね。」
「あら……ひどいわ。人が本気で心配してるのに冗談なんか云って。」
然し彼は、まだ先刻の幻想から本当には醒めきれないでいた。春子と言葉を遣り取りしてるのまでが、何だか変に上の空だった。けれど、彼はその時ぴたりと口を噤んでしまった。沢子の鋭い眼付に出逢ったのだった。彼女の眼には、彼がこれ迄嘗て見たことのないほどの鋭い現実的な――彼には何故となく現実的と感じられた――色が浮んでいた。
「余りこんな強いお酒を飲むからよ。」と彼女は云った。「お水《ひや》を持ってきてあげましょうか。」
昌作は彼女の眼を見返して、彼女がごまかしを云ってることをはっきり感じた。うっかり返辞が出来ない気がした。沢子は彼の顔をじっと見ていたが、やがて突然叫んだ。
「やっぱりそうよ。あなたは何か苦しんでいらっしゃるに違いないわ。宮原さんの仰言った通りよ。」
「宮原さん……。」昌作は云った。
「ええ、宮原さんはあなたが苦しんでいらっしゃるかも知れないって……。」
彼女は云いさして唇をかんだ。そして暫く空《くう》を見つめていたが、ふいに立上った。
「私あなたにお見せするわ。」
沢子が奥に引込んで行く姿と昌作の顔とを、春子は不思議そうに見比べていたが、ふいに奥深い笑みを眼の底に漂わした。
「大丈夫ですよ。心配なさらなくても……。」
そんなことを云い捨てて、彼女は奥へ立っていった。
沢子はなかなか出て来なかった。昌作が待ちあぐんで苛ら苛らしてると、漸く沢子はやって来た。そして一枚の葉書を彼へ差出した。
「今朝、宮原さんから来たのよ。読んでごらんなさい。」
昌作は受取って読んだ。
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御手紙拝見。またそんなむちゃなことを云ったって駄目ですよ、もう少し待たなくては。それから、佐伯君とは快く話が出来て、僕も嬉しい気がします。ただ、変な工合になって、誰にも話さなかったことを、僕達の昔のことを、すっかり話してしまったが、後で考えると、少し早すぎたように思われます。佐伯君のうちには、まだあなたが本当に知っていないものがあるようです。或は、後で何か苦しんでいるかも知れません。逢ったら慰めて上げて下さい。何れまた。
[#ここで字下げ終わり]
昌作はそれを二度繰返して読んだ。眼の中に熱い涙がにじんでくると同時に、また反対に、呪わしい憤りが湧き上ってきた。彼は葉書の表までよく見調べてからこう云った。
「君はこれを、僕に見せるために、わざわざ持って来たの?」
その泣くような詰問するような調子に、沢子は一寸眼を見張ったが、静に答えた。
「いいえ。お午前《ひるまえ》に受取ったんだけれど、何だかよく分らないから、なお読みながら考えようと思って、持って来たのよ。」
昌作はなお云い進んだ。
「君は一体僕を宮原さんに逢わして、どうするつもりだったんだい?」
沢子は暫く黙っていたが、もう我慢出来ないかのように云い出した。
「あなたそんな風に取ったの? 私、そんな気持じゃちっともなかったのよ。……あんまりひどいわ。私あなたのことをいろいろ考えてみたの。考えると何だか悲しくなって……。」そして彼女は眼を濡《うる》ました。「自分でもなぜだか分らないけれど、ただ変に悲しくなって……こんな風に云ったからって怒らないで頂戴……どうしたらいいかといろいろ考えて、そしてふと宮原さんのことを思いついたのよ。宮原さんは、そりゃしっかりした真面目な方なんですもの。私どれくらい力をつけて貰ってるか分らないわ。よくむちゃを云うって叱られるけれど、叱られて初めて、自分が軽率だったことに気がつくのよ。私何だか、あの方はいつも深いことばかり考えていらして、一目で心の底まで見抜いておしまいなさるような気がするの。そして大きい力を持っていらっしゃるような気がするの。そうじゃないかしら? 私一人そんな気がするのかしら? ……いえ、確かにそうよ。それで私、あなたも宮原さんにお逢いなすったら、屹度いいだろうと思ったの。そして私達三人でお友達になる……そう考えると非常に嬉しくって、もう一日も待っておれなかったの。私宮原さんにいつも、無鉄砲で独り勝手だと云われるけれど、自分ではよく考えてるつもりなのよ。私ほんとに悲しかったんですもの……いろんなことを考えて。それが、三人でお友達になったら、みんなよくなるような気がしたの。それをあなたは……。」
彼女は一杯涙ぐんでいた。それが宛も小娘みたいだった。昌作は心のやり場に迷った。迷ってるうちに、いつしか自分も涙ぐんでしまった。
「だって、三人で友達になってどうするんだろう?」
「私それが嬉しいわ。」
「然し三人の友達というのは……一寸何かがあればすぐ壊れ易いものだよ。……君達だって、宮原さん夫婦と君と、躓いたじゃないか。」
「あれは私達が悪いのよ。」
「悪いって?」
「だって私達は……一寸でも……愛し合う気になったんですもの。愛し合う気になったのが悪いのよ。」
「愛し合う気になったのが?」
「え
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