をきめなけりゃならないのだ!」
 昌作は殆んど絶望的にそう呟いて、清楚とも云えるほど上品な趣味で化粧品類が並べてある店の方をちらりと見やりながら、柳容堂の薄暗い階段を上って行った。明るいわりに心持ち狭い二階の室に出ると、彼は俄に眼を伏せて、壁際の小さな円卓に行って坐った。
 薄汚れのした古いペーパーの洋酒瓶が両側にずらりと並んで、真中に大きな鏡のついてるスタンドの向うから、きりっと襟を合した沢子の姿が現われた。彼女は昌作の方をじっと見定めて、真面目な顔の表情を少しもくずさずに、眼で一寸会釈をしながら、彼の方へ近寄って来た。彼は眩《まぶ》しいような気持になった。瞬間に、そうした余りに初心《うぶ》な自分の心を、自ら恥しくまた意外にも感じて、右手で額の毛を撫で上げながら、恐ろしく口早に云った。
「菓子と珈琲とコニャックとをくれ給い。」
 それから袂を探って煙草に火をつけながら、卓子の上に顔を伏せた。
 その時彼は初めて、何故に此処に来たかを自ら惑った。九州へ行くか行かないかについて、心に喰い込んでる彼女[#「彼女」に傍点]に片をつける、それが彼の求めてる重な事柄だった。それには、暫く沢子から
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