したの、九州へ行くことにきめて? それとも行かないの?」
 昌作は初めその問題を予期していたものの、一度禎輔からあらぬ方へ心を引張られた後なので、咄嗟に思うことが云えなかった。
「私いろいろ考えてみたけれど、やはり行った方がよくはなくって?」と達子は構わず云い進んだ。「炭坑と云えば一寸つらいようだけれど、何も坑《あな》の中へはいって仕事をするのじゃなし、普通の事務員だと云うから、却ってそんな所で働いた方が面白かないでしょうか。月給だって初めから百五十円貰えば、云い分ないでしょう。そんなよい条件はなかなか探したってあるものですか。坑主の時枝さんが、昔片山のお父さんに世話になったとかで、片山が無理に頼んだ上のことですから、きっと出来るだけの……破格の待遇に違いないわよ。手紙にもそう書いてあったわ、ねえ、あなた。」彼女は禎輔の方をちらと見やって、また昌作の方へ向き返った。「そりゃあ東京を離れるのは嫌でしょうけれど、一時九州の炭坑なんて思いもよらない処へ行ってみるのも、却って生活を新たにするのによいかも知れないわ。あなたはいつも、生活を新たにするって、口癖のように云ってたじゃないの。」
「ええ、そういう気持は常にありますが……。」と昌作は漸く口を開いた。「兎に角、生活を新たにするには、それだけの……軸が、心棒が必要なんです。それを探し廻ってるんです。所が生活を立て直す心棒なんてものは……。」
「冗談じゃないわよ。」と達子は彼を遮った。「今はそんな議論の場合じゃないわ。九州へ行くか行かないかの問題じゃありませんか。行くのが却ってその心棒とかになりはしないかと、私は云っただけよ。……でどうするの、行って? それとも行かないの?」
「そうですね……どうしたもんでしょう?」
「あら、あなたはまだ決めていないのね。でも今晩、行くか行かないかの返事をする約束じゃなかったの?」
「そのつもりでしたが、もっと詳しく聞いてからでないと……。」
「聞くって、どんなことを? もうちゃんと分ってるじゃありませんか。」
 勿論大概のことは分っていた。片山の知人の時枝という坑主が、片山の頼みで、佐伯昌作を事務員に使ってみようということになり、而も百五十円という破格の月給をくれて、なお本人の手腕によっては追々引立ててやるとのことだった。その炭坑は北九州でも可なり大きい方のもので、他に事務員も沢山居るから、初めは見習旁々遊んでいてもよいという、寛大すぎる条件までついていた。然しそういう余りに結構な事柄こそ、却って昌作を躊躇せしめたのである。
「然し私には、余りよい条件だから却って、変な気がするんです。」
「それは炭坑のことですもの、」と達子は訳なく云ってのけた、「百五十円やそこいら出して一人の人を遊ばしといたって、何でもないんでしょう。それに、時枝さんの方では、片山からの頼みだから、片山のお父さんへの恩返しって気持もあるのでしょうから。」
「一体、九州の直方《のうがた》って、どんな土地でしょう?」
「そりゃあ君、山があって、そして朱欒《ざぼん》という大きな蜜柑が出来る処さ。」と突然禎輔は冗談のように云った。「僕も一度あの朱欒のなってる所を見たい気がするね。いつか時枝君が送ってくれたのなんか素敵だったよ。綿を堅めたような真白な厚い皮の中から、薄紫の実が飛出してくるんだからね。たしか君も食べたろう?」
「ええ、あいつは旨かったですね。」
「僕はね、あの種を少し庭の隅に蒔いたものさ。所が折角芽を出すと、女中が草と一緒に引っこ抜いちまった。」
「そんなことはどうだっていいじゃありませんか。」と達子は急に苛立ってきた。「行くとか行かないとか、一応の返事を時枝さんへ出しておかなければならないと、あなたはあんなに気を揉んでいらしたじゃありませんか。向うで好意から取計って下さるのを、余り長く放っておいては、ほんとに済みませんわ。……佐伯さんだってあんまり我儘よ。今晩どちらかの返事をすると約束しておいて、まだ元のままのあやふやな気持なんですもの。そんなことじゃ、いつになってもきまりっこないわよ。私いろいろ考えた上で、屹度あなたが行らっしゃるものだと思ったものだから、もうお餞別の品まで考えといたのよ。繻絆[#「繻絆」は底本では「絆繻」]や襯衣や足袋や……そんなものまで、こうしてああしてと考えといたのよ。それなのに……。私もう知らないから、勝手になさるがいいわ。」
「そんなことを云ったって、」と禎輔が引取って云った、「佐伯君にもいろいろ都合があるだろうし、そう急に決心がつくものかね。」
 昌作は、今度は自分が何とか云わなければならない場合だと感じたが、一寸言葉が見出せなかった。彼の心には再び、何とも知れぬ惑わしいものが被さってきた。実際先達てから、行くか否かの返事だけなりとも時枝へ出して
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