あまり山上でもないが、海岸に比ぶれば土地はよほど高いんだろう、まあ山上の湖水と云えば云えないこともないね。……ああ、そうそう、君は、山上の湖水なんかにどうして鰻《うなぎ》がいるか知ってるかい? 鰻って奴は、必ず海に卵を産んで、その卵から孵《かえ》ったのが、川を遡って内地……と云っちゃあ変だが、海に遠い山間の渓流へまでやって来るんだよ。それが出口も入口もない山上の湖水にまで、どうして来ると思う? 知らないだろう? そいつが面白いんだ。何とか云う学者の説に依ると、鰻の小さい奴が、まあ幼虫だね、それが水鳥の足にくっついて山上の湖水まで運ばれるんだそうだ。面白いじゃないか。」
 声に曇りはなかったけれど、その調子は変に空疎で気が籠っていなかった。と云って、人を馬鹿にしてるのでもないらしかった。昌作は何故ともなく気圧《けお》される気がして、ただじっと待っていた。禎輔の心が今そんな所にある筈ではなかった。九州の炭坑に行くか否かの昌作の返答こそ、今晩の問題であるべき筈だった。昌作はいつもの禎輔の調子からして、顔を見るなりすぐに問題へ触れられることと予期していた。所が何という他愛もない話だったろう! 或は高圧的に返答を引出すのを遠慮して、つまらないことに話を外らしながら、切り出されるのを待つつもりかも知れない、まさか、先日まであんなに急きこんでいたのを忘れたのではあるまい、などと昌作は考えてみた。けれど禎輔の話は、案外深みへはいっていった。
「いい天気じゃないか、この頃は。こんなだと実際に旅に出たくなるね。こないだ僕は久しぶりで郊外に出てみたよ。……然し、何と云ってももう秋の終りだね。いくら晴々とした日の光でも、云うに云われぬ悲愴な冷かさがある。
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野ざらしを心に風のしむ身かな
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 この句は僕は口の中で繰返し繰返し歩いたものだ。」
 突然、殆んど瞬間的に、心をつき刺すような眼付をじろりとまともに受けたのを、昌作は感じた。喫驚して顔を挙げると、禎輔は押っ被せて尋ねかけた。
「君は鮑《あわび》のとろろ[#「とろろ」に傍点]ってものを知ってるかい?」
 昌作は知らないという顔色をした。
「君のお父さんや僕の親父などが、日本一の旨い料理だと云って話してきかしたものだ。僕はまだ食ったことはないがね。東海道の何とかいう辺鄙な駅にあるそうだ。取り立ての鮑をね、いきなり殻をはいで、岩のように堅くなった生身《いきみ》の肉を、大根研子《だいこおろし》でおろして、とろろ[#「とろろ」に傍点]にしたものだそうだ。……残酷じゃないか、君、生身を大根研子でおろされる時の感じは、どんなだろうね。それから、栄螺《さざえ》の壺焼だって……。」
 そうなると、もう一種の述懐ではなくて、何か他意ありそうな攻撃的な語調だった。昌作は返辞に迷って、相手の顔をぼんやり見守った。顎骨の弱った四角な顔、わりに小さな眼と低い頑丈な鼻、短く刈り込んだ口髯、顔全体が何処となく間のびしていながら、その間のびのしたなかに、強い意力と冷たい皮肉とを湛えていた。眉の外れに小さな黒子《ほくろ》があった。昌作の視線は次第にその黒子に集ってきた。その時、殆ど敵意に近い感情が禎輔の顔に漂った。何かどしりとした言葉が落ちかかって来そうなのを、昌作は感じた。
 けれど、丁度その時、奥の室から達子が出て来た。
「いらっしゃい。」
 下唇の心持ち厚い受口から出る、多少切口上めいた語尾のはっきりした言葉で、彼女は昌作を迎えておいて、其処に坐った。そのために室の中の空気が一変した。禎輔の顔は俄に無関心な表情になった。宛も、覗き出しかけた彼の心が再び奥深く引込んだかのようだった。妻の前に於ける彼のそういう態度の変化が、一寸昌作を驚かした。元来禎輔は、深い問題を論じ合ってる熱心な際にも、妻の達子が其処に出ると俄にくつろいだ態度を取る癖があった。妻をいたわるのか或は妻の手前を繕ろうのか、または、妻を軽蔑してか或は恐れてか、何れともそれは分らないが、兎に角俄に、余裕のある何喰わぬ態度をするのだった。その無意識的な癖を昌作は嫌だとは思わなかった。然しその晩の禎輔の態度は、単なるそういう癖ばかりではないらしかった。何かしら意識的な努力の跡が仄見えた。昌作は一寸心を打たれざるを得なかった。それと共に、今迄禎輔と対座中、自分が殆んど一言も口を利かなかったということが、ふいに頭に浮んだ。禎輔ばかり口を利いて昌作が無言でいるというようなことは、昌作が少し使いすぎて余分な金を貰いに来るような時にでも――(そんな時禎輔は別に小言も云わずに金を出してやった)――今迄に余りないことだった。昌作は変に落着かない心地になった。然し達子は彼に長く猶予を与えなかった。いつもの率直さで尋ねかけた。
「佐伯さん、どう
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