よろしく……。君のことは沢子さんから聞いてはいましたが……。」
いきなり君と呼ばれたことと沢子さんという言葉とが、また昌作を変な気持にさした。
「私もお名前は伺っておりました……。」
昌作はそう鸚鵡返しに答えてから、へまな挨拶をしたという気まずさのてれ隱しに、濡れた冷たい足袋の足先を煖炉の火にかざした。
「そんなに降ってるの?」と沢子が云った。
「雨はそうひどくないが、横降りなんだから……。」
「そう。御免なさい。」と彼女は雨の責任が自分にあるかのような口を利いた。
「その代り何か温まるものを持ってきてあげるわ。」
昌作がいつもあつらえる珈琲とコニャックとを取りに、沢子が立って行った時、俊彦は落着いた調子で云った。
「沢子さんの気まぐれにも困るですね。是非やって来て君に逢えって、殆んど命令的な手紙を寄越すんですからね。こんな天気に済みませんでした。けれど、僕は何だか、君も御承知でしょうが、他に大勢客が居そうな時には、一寸来難いもんですからね。それでわざわざ、雨の降る寒い晩なんかを選んだのです。」
別に云い渋るのでもないらしい自然な声で、真正面を向いたままそう云われて、昌作は一寸返辞に迷った。けれど、非常にいい印象を受けた。ややあって不意に云った。
「私も、他に客の居ない方がいいんです。あなたにお目にかかるのを非常に待っていました。」
俊彦はそれを聞き流しただけで、煖炉の火に眼を落した。
二人はそのまま黙っていた。暫くして沢子は、珈琲を二つとコニャックを一杯持って来て、珈琲の一つを俊彦の前へ差出したが、別に何とも云わなかった。昌作は眼を挙げて、彼女の様子がいつもと違ってること、何か変に気持をこじらしてることを、見て取った。それが彼の心を暗くした。沈黙が長引くほど苦しくなってきた。その沈黙を破るべき言葉を探し求めたが、なかなか見つからなかった。すると、不意に沢子が云い出した。
「佐伯さん、あなた九州行きはどうして?」
昌作は答える前に、俊彦の顔をちらりと見た。俊彦はまじろぎもせずに煖炉の火を見つめていた。
「まだあのままさ。」と昌作は答えた。
そして俄に彼の心に、或る何物へとも知れない憤懣の念が湧き上ってきた。片山からの電話を三四度も素気なく放りっぱなしにしたことが、何か取り返しのつかない失体のように頭を掠めた。宮原俊彦に逢って何をするつもりだったのか?「沢子の気まぐれ」からここまで愚図々々引っ張られて来た自分自身が、なさけなく怨めしかった。沢子に恋しておればこそ!…… そして沢子は、その恋を知りつつどうするつもりなのか?
昌作が次第に首を垂れて考え込んでるうちに、沢子は俊彦の方へ話しかけていた。
「先生、私松本さんの所で、やはりお弟子の小林さんて方と、議論をしましたのよ。」
「何の?」と俊彦は顔を挙げた。
「いつか先生が手紙に書いて下すったでしょう、初めのうちは出来るだけ自己を画面に出しきるがよい、腕が進んでくるに従って、次第に自己が画面から消えて、偉い作品が出来るものだって。私がそう云うと、小林さんはまるで反対の意見なんでしょう。初めは自己を画面には出していけない、腕が進んでくるに従って、本当の自己が画面に現われてきて、立派な作品が出来るものですって。それでさんざん議論をしても、とうとう分らずじまいですから、しまいには松本さん所へ持ちこみましたのよ。」
「すると?」
「何とも仰言らないで、ただ笑っていらしたわ。好きなようにやるがいいだろうって。屹度御自分にもお分りにならないんでしょう。」
「うまく軽蔑されたもんですね。」
「あら、誰が?」
「あなた達がさ。あなた達のその議論は、第一自己というものの見方が違ってるから、いつまで論じたってはてしがつきませんよ。」
「そう、どうしてでしょう?」
「どうしてだか、僕にもお分りになりませんね。……そんなことより沢子さん、僕に絵を一枚くれる約束じゃなかったですか。」
「あら、先生に差上げるようなもの、まだ出来やしませんわ。」
昌作は突然口を出した。
「沢ちゃんの群像って話をお聞きになりましたか。」
その声が、昌作自身でも一寸喫驚したくらい大きかったが、俊彦は別に大して気を惹かれもしないらしく、ただ眼付きだけで尋ねかけてきた。それを沢子は引取って云った。
「あら、そんなでたらめなことを先生の前で……。嘘よ、嘘よ。」そして彼女は何かに苛立ったかのように次第に早口になりながら、而も真面目だかどうだか見当のつかない調子で、云い続けていった。「私記者なんかしたものだから、ここに居てもいろんなことを人に云われて、ほんとに嫌になってしまうわ。誰にも顔を合せないで、一人っきりでいられる仕事はないものかしら? 一日自分一人で黙っていて、勝手なことばかり考え込んでおられたら……。あなたな
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