うだった。沢子から今にも電話がかかって来そうだった。その、今にも……今にも……という思いが、彼の凡てを揺り動かした。その上彼の室は、この旅館兼下宿の、下宿の部と旅館の部との間に挟っていて、一時滞在の田舎客の粗暴な足音が、夜になると共に煩く聞えてきた。
十分ばかりの間じっと我慢した後、昌作は急に立上った。彼が食事の時にいつも与えることにしていた練乳《コンデンスミルク》の溶かしたのを、室の隅でぴちゃぴちゃ舐め終った猫が、なお物欲しそうに鼻をうごめかしてるのを、彼はいきなり胸に抱き上げて、慌しい眼付で室の中をぐるりと見廻してから、それでもゆっくりした足取りで出て行った。帳場の室に猫を押しやり、話しかける主婦《かみ》さんの言葉には碌々返辞もせずに、自分の用だけを頼んで――柳容堂からと云って電話がかかったら、つないだまま知らしてほしい、他の電話や訪客には一切、不在だと答えてほしい――と頼んで、二軒置いた隣りの撞球場《たまつきば》へ行った。球をついてるうちにも、始終何かが気にかかったけれど、別に仕方もなかったので、つまらないゲームに時間をつぶして、夜更けてから下宿に帰った。帰ると先ず何よりも、電話の有無を女中に尋ねて、それから冷い心で自分の室にはいった。
四日目の午後から晩へかけて、片山からという電話が三四度かかった。一度は女中が撞球場までやって来て、昌作の意向を聞いた。探したけれど分らないと云ってくれ、と昌作は答えた。凡ては宮原俊彦に逢ってから! ということが、いつしか彼の頭の中に深く根を張っていた。逢って何になるかは問題でなかった。ただ一生懸命に待ってるために、昌作は知らず識らずそれに囚われていたのである。其他のこと一切は、憂鬱で億劫だった。
そして偶然にも、丁度その晩八時頃柳容堂からの電話を女中が知らして来た時、昌作は突棒《キュー》を置いてゲーム半ばに立上った。午後から風と共に雨が降り出していた。昌作は傘を手に握ったまま雨の中を飛んで帰った。電話口に立つと、覚えのある沢子の声がした。
「あなた佐伯さん?……じゃあ、すぐに来て下さいよ。今ね……いらしてるから。他に誰もいないわ。すぐにね。」
「今すぐ出かけるよ。……そして……。」
昌作が何か云おうとするのを待たないで、沢子は「すぐにね」を繰返して電話を切ってしまった。
昌作は自分の室に戻って、一寸身仕度をして出かけた。
大した風でもなさそうだったが、雨は横降りに降っていた。油ぎった泥濘が街灯の光を受けて、宛も銀泥をのしたようにどろりとした重さで、人影の少い街路に一面に平らに湛えてる上を、入り乱れた冷たい雨脚が、さっさっと横ざまに刷いていた。昌作は傘の下に肩をすぼめて、膝から下は外套の裾で雨を防いだ。電車に乗っても、背筋から足先へかけて冷々《ひえびえ》とした。
途中で一度電車を乗り換え、柳容堂の明るい店先へ近づくに従って、昌作は自分の地位を変梃に感じ初めた。この四五日の間あれほど一生懸命に待っていて、そして今雨の降る中を、宛も恋人ででもあるように夢中になって逢いに行くその当の宮原俊彦が、一体自分にとって何だろう? そして自分は彼にとって何だろう? 二人は逢ってどうしようというのか? 而も沢子の面前で……。泣いてよいか笑ってよいか形体《えたい》の知れない感情が、昌作の胸の中一杯になった。それでも彼は行かなければならなかった。
柳容堂の二階へ通ずる階段に足をふみかけた時、昌作は殆んど無意識的に顧みて、爪革に泥のはねかかってる古い足駄が一足、片隅に小さく脱ぎ捨ててあるのを見定めた。それから階段を、一段々々数えるようにして上って行った。
二階に上って、第一に彼の眼に止ったものは、室の両側の壁にしつらえてある可なり贅沢な煖炉の、一方のに赤々と火が焚かれてることだった。その煖炉の前の卓子に、長い頭髪を房々と縮らした一人の男と沢子とが、向い合って坐っていた。
昌作の姿を見ると、沢子はすぐに立上って、二三歩近寄ってきたが、其処にぴたりと立止って、サロンの女主人公といった風な会釈をした。それから彼を煖炉の方へ導いて、殆んど二人へ向って云った。
「先生よ。」
その先生という言葉が、昌作の耳に異様に響いた。がそれよりも変なのは、初めて見る宮原俊彦の顔に、彼は何だか見覚えがあるような気がした。頬骨の少し秀でた、頬のしまった、髯のない、色艶の悪い顔、痩せた細い首、そして縮れた髪の垂れてる額の下から、近眼鏡の奥から、大きな眼が輝いていた。何処ということはないが、重にその眼に、昌作は古い見覚えがあるような気がした。
もじもじしてるうちに、沢子が横手の椅子に腰を下ろしてしまったので、昌作は仕方なしに、一つ不自然なお辞儀をしておいて、俊彦と向い合って坐った。
「宮原です。」と俊彦は云った。「どうぞ
前へ
次へ
全44ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング