。……夢想と云った方がいいかも知れない。眼をあけながら、時には眼をつぶって、夢をみるんだからね。日向に蹲ってる猫のようなものさ。すぐに二時三時にはなる。それから、机の上を片附けたり、何をしようかと考えたり、読みもしない書物を開いたり、火鉢の火をいじくったり、……下らないこまごましたことが無数にあるんだ。そして四時か五時頃になる。そうなると、夕食の時間を待つばかりだ。君なんかには分るまいが、待つということが、単に食事を待つんでもいい、結構な時間つぶしなんだ。夕食を済ますと、外を歩きたくなって、散歩に出る。用も当もなしに歩き廻ってると、疲れることもないし、時間のたつのも覚えない。それに電車に乗ったりなんかして、空いた電車を幾台も待ったりなんかして、家に帰る時分には、もう寝る時間になってるという始末なんだ。……何にもすることがなくて、まるで猫のようなものさ。下宿に大きな三毛猫がいるんだがね、僕が家に居ると、いつも僕の室にばかりやって来るよ。僕の室の前に来て、にゃごう、にゃごう……と二声三声鳴くんだ。返辞がないと、すごすごと帰って行くそうだ。僕が居る時には、いつまでも立去らない。障子を開けてやると、ごろにゃん、ごろにゃんと、挨拶をするのさ。ごろにゃん、ごろにゃん……。」それを昌作は可笑しな調子で繰返した。「こういう風に二三度口の中でくり返してみ給い。自分も猫になったような気がしてくるから。……僕の生活も猫と同じさ。室の中で猫と二人でじっとしている。猫の眼が細くなってくると、僕も夢想のなかでうっとりとする。猫の眼が急に大きくなると、僕もはっと自分に返る。全く猫の生活だね。」
「だって、あなたは……。」
「仕事もしてると云うんだろう。陸軍の方の飜訳をしたり、時には詩や雑文を綴ってみたりね。然しそんなのは仕事じゃないよ。仕事というのは、それで自分の生活が統一されるもののことなんだ。僕の生活にはまるで統一がない。陸軍の方の『独立家屋』なんていう変な飜訳や、死にかかった病人の脈搏みたいな韻律《リズム》の詩や、不健全な読書や、芝居や球突や、それから、多くは猫の生活、そんなのが、仕事と云えるものかね。僕は自分でも自分に倦き倦きしてるんだ。こんな生活を長く続けてると、どんな憂鬱と倦怠とが押っ被さってくるか、君には想像もつくまい。ロシアの小説によく、退屈でたまらないという人物が出て来るね。けれどあんなのはまだいいよ。退屈にせよ憂鬱にせよ、世界的に偉大さと深さとがあるからね。所が僕のは何もかも薄っぺらなのだ、ふやけてるんだ。九州の炭坑へでも追いやられたら……光を失って闇の中へでもはいったら。……」
 昌作は口を噤んだ。ふと無意識に出て来た言葉から衝動《ショック》を受けて、眼前の沢子に対する情熱が高まってくるのを感じた。胸の中に苦しい震えが起った。
 沢子は静かな調子で云った。
「あなたには炭坑よりも農場なんかの方がいいと、私思ってるわ。盛岡の農林学校に中途までいらしたでしょう、その方がよほど自然よ。農場で仕事をしながら、昆虫でも研究なさるのは、いい生活じゃないでしょうか。そら、いつかお話なすったでしょう、昆虫のことばかり書いてるフランスの何とか云う人の書物……。」
「ファーブルの昆虫記だろう。」と昌作は心が他処にあるかのように非常にゆっくりした調子で云った。「あんなものはもう嫌だよ。あの世界は大部分争闘の世界だ。僕はもっと他のものがほしい。闘いではなくて……。」
「では、詩人は?」
「詩人!」
 昌作は何故となく喫驚した。
「私あなたの詩を覚えてるわ。」
「僕の詩だって?」
「いつか酔っ払っていらした時、私に書いて下すったじゃないの。淋しければっていう題の……。」
「知らないよ。」と昌作はぶっきら棒に云った。覚えてるようでもあれば、覚えていないようでもあったが、何だか心の傷にでも触《さわ》られるような気がしたのである。
「じゃあ云ってみましょうか。初めの方は覚えていないけれど、最後のところだけちゅうに知っててよ。
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吾が心いとも淋しければ、
静けきに散る木の葉!
あわれ日影の凹地《くぼち》へ
表か?……裏か?……
明日《あす》知れぬ幸《さち》を占うことなかれ。
[#ここで字下げ終わり]
分って?」
 昌作は思い出した。それはまだ九州行きの問題が起らない前、或る晩すっかり酔っ払って、ふと沢子の許へ立寄った時、急に堪らない淋しさを覚えて、その頃作ったばかりの詩を一つ、分り易いように紙にまで書いて、云ってきかしたものだった。その三連から成る詩の、最後の一連だった。そのことが、非常に遠く薄れてる記憶の中から、今ぽかりと目近に浮上ってきた。昌作は顔が赤くなるのを覚えた、……けれど、何だか一寸腑に落ちない所があった。
 昌作は沢子にも一度その詩句を
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