ら無くなってしまってる。それを、何とも云わないで、片山さんは今でも毎月僕に生活費の不足を出してくれてるんだ。そして僕のために非常に奔走して、僕には勿体ないほどのあの九州の口を探してくれた。いくら僕が恩知らずだって、はっきりした理由もないのに、断れるものか。」
云ってるうちに彼は捨鉢な気持になったのだった。前に話したことはあるけれど、此処に持ち出さずともいい豚の女[#「豚の女」に傍点]のことまで云い出して、自ら自分を鞭打ちたかったのである。彼はなお云い続けた。
「それは片山さんだって、好意が……親のような好意があるなら、僕を九州まで追いやらずともいいさ。然し僕はもう片山さんの心をあれこれと詮議立てしたくはない。何もかも黙って受けようよ。僕のような者には、全く見ず知らずの新しい世界にでもはいらなけりゃ、生活が立て直りはしないんだからね。仕事を見付け出してやることが、僕を救う途だそうだ。そうかも知れない。仕事さえあれば、朝から晩まで馬車馬のように追い立てられさえすれば、それで僕の生活が立て直るんだろうよ。其他のものは何にも……。」
昌作は今にも自分が泣き出しそうになってるのを感じた。と一方に、自嘲の念が湧いてきた。
「下らない!」
そう云いすてて、彼は椅子の上に軽く身体を揺りながら、チョコレートの菓子とコニャックの杯とを両手に取って、一方をかじり一方を啜った。
沢子はその様子を喫驚したような眼で眺めた。
「あなた、何に怒ってるの?」
「怒ってなんかいやしない。……もし怒ってるとしたら、自分自身に怒ってるんだろうよ。」
「つまんないじゃないの。」
何がつまらないか昌作には一寸分らなかった。が、それがぴたりと胸にきた。
「そうさ、全くつまらないよ。君なんかには分らない味さ。……画家なんて呑気だからね。」
「え?」
「君は画家になるつもりだっていうじゃないか。」
「私が!……。」彼女は遠くを見るような眼付をした。「あなた、それをどうして知ったの?」
「先刻《さっき》ちらと聞いたよ。」
「あ、あの嫌な人達?……どうして分ったんでしょう?」
「君が此処に来る客の顔をみんな描いて、それを好きな者と嫌いな者とに分けて、好悪の群像とかを拵えるつもりだって、云っていたよ。」
沢子はそれには何とも答えなかった。
「どうして分ったんでしょう? 不思議ねえ。私誰にも知らせないようにしてたんだけれど。」
「別に隠す必要はないじゃないか。」
「だって、うるさいんですもの。私雑誌記者なんかしてたんでしょう……婦人雑誌じゃあるけれど……それがこんな所へはいったものだから、いろんなことを云われて困るのよ、あなたは知らないけれど、文壇てそりゃうるさいもんなのよ。」
「人が何と云おうと構わないさ。」
「だけど……。」
彼女は急に押し黙ってしまった。その黙り方が如何にも執拗だったので、昌作は突き放されたような気がして、反撥的に黙り込んだ。
「私ね、」と長くたってから沢子は云い出した、「実は宮原さんと誓ったことがあるの、これから真面目に勉強するって。そして何を勉強したらいいかさんざん迷った上で、画家になりたいと心をきめたのよ。そしてこんな所にはいり込んだのよ。記者と違って、ここだと午前中はすっかり隙だし、普通の珈琲店よりいくらかいいでしょう。どうせ国を逃げ出してきて、自分で働かなけりゃならないから、これ位のこと仕方ないわ。そして私こっそり、松本さんのアトリエに通ってるのよ。……誰にも分らないようにするつもりだったけれど、どうして分ったんでしょう?……あなただからお話したのよ。誰にも黙ってて頂戴、ねえ。」
昌作には、そんなことを何故に彼女がひた隠しにしてるのか、合点がいかなかった。然し別に尋ねてみる気も起らなかった。ただ宮原のことだけが少し気にかかった。宮原と彼女との関係をも少しはっきり知りたかった。それをどういう風に云い出したらよいか迷ってるうちに、沢子はしみじみとした調子で云い出した。
「あなた毎日何にもしないで暮してるって、本当?」
昌作はただ眉をちらと動かしただけだった。
「何にもしないで暮せるものかしら? ほんとに何にもすることがなくて、そしてほんとに何にもしないで……。」
「暮せるさ。」と昌作は突然我に返ったように饒舌り出した。
「時間なんかじきにたっちまうものだよ。朝眼がさめると、床の中で新聞をゆっくり読む――これがなかなか大変なんだ、半分眠ってて半分覚めて読むんだから、蟻の這うようなものさね。普通の者には出来ない芸当だ。それから、十時頃に起き上る。髯を剃ったり髪を解かしたりしているうちに、一時間くらいわけなくたってしまう。十一時頃、朝昼兼用の食事をして、新聞にまた隅々まで眼を通したり、ぼんやり空想に――空想という奴は、時間つぶしに一番いいんだ
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