ように、昌作には思えるのだった。そしてその平凡な常識的な事柄がまた、昌作には、自分の想像もつかないことであるような気がした。非常に平凡で非常に曖昧だった。而も一方には、その平凡な曖昧なものの上に、俊彦自身が云ったように、彼の運命が重くのしかかってるらしかった。――そしてそのことが、昌作を或る暗い所へ引きずり込んでいった。彼は何だか形体《えたい》の知れない壁にぶつかったようで、息苦しさまで覚えた。「つきぬけなければならない、つきぬけることが必要だ、」そう彼は心で叫んだ。それと共に、沢子に対する愛情が激しく高まってきた。彼にとっては、宮原俊彦こそ、沢子へ縋りつこうとする自分を距てる毒虫のように思えた。――けれど、不思議にも、宮原俊彦に対するそういう反感は、昼間の明るい光の中でこそしっかりしているが、夜にでもなって、何か一寸した変化でもあれば、すぐにわけなく消え去っていって、全く反対のものになりそうなことを、彼は心の奥の方で感じたのである。――昌作はどうしても落着けなかった。何とかしなければならなかったが、それが分らなかった。
彼は考え込みながら、ぶらりぶらり歩いた。そのうちに何もかも投げ出したい気持になって、わりに呑気になった。空腹を覚えたので、見当り次第の家で一寸|昼食《ランチ》を取って、それから、全く知らない碁会所へはいり込んで、日当りの悪いがらんとした広間で、主人と手合せをやった。それにも倦いて、四時頃表へ出て、またぼんやり歩き出した。そしてふと彼は足を止めた。晩秋の淋しい光が、くっきりとした軒並の影で、斜め上から街路を蔽いつくしていた。彼は急いで下宿に帰ってみた。昨日の今日だから、或は沢子から手紙なり電話なり来てるかも知れないと、突然そんな気がしたのである。
下宿で彼を待ち受けていたのは、沢子からの便りではなくて片山からの電話だった。朝から二度ばかりかかってきたと女中が云った。
昌作は約束の四五日が今日でつきることを思い出した。然し彼にとっては、その四五日が如何に長い時日だったろう。彼は遠い昔のことをでも思い出すように、五日前の片山夫妻との約束を考えた。そして、九州へ行かないことにいつしか決定してる自分の心に気付いて、自ら喫驚した。自然に決定されたのだ、という気がした。
「何とでもその場合に応じて断ってやれ。」
そう捨鉢に心をきめて、彼は片山の家へ行ってみた。今から行けば丁度夕飯時分で、夫妻といつものように会食するということが一寸気にかかったけれど、構うものかとまた思い返した。
禎輔は不在で達子が一人だった。昌作は何故ともなく安堵の思いをした。達子は彼の姿を見て、待ちきれないでいたという様子を示した。
「佐伯さん、一体どうしたの? あんなに電話をかけたのに……。昨日も今日も五六回の上もかけたんですよ。するといつも居ない、居ないって、まるで鉄砲玉みたいに、何処へあなたが行ったか分らないんでしょう。私ほんとに気を揉んだのよ。変に自棄《やけ》にでもなって、何処かで酔いつぶれでもしてるのじゃないかと、そりゃあ心配したんですよ。……でも、宿酔のようでもないようね。一体どうしたんです? 電話をかけたらすぐに来て下さいって、あんなに頼んどいたのに……。」
黒目の小さな輝いた眼がなおちらちら光って、受口《うけぐち》の下唇をなお一層つき出してるその顔を、昌作は不思議そうに見守った。
「あなたも御存じじゃありませんか、私は此頃はわりに謹直になって、酒なんか余り飲みはしません。ただ、一寸用事が出来たものですから、その方に駈けずり廻っていたんです。」
「でも昨日はあんなに雨が降ったのに、その中を……?」
「雨くらい平気ですよ。」
「嘘仰言い、懶惰《ものぐさ》なあなたが!……それじゃ、やはりあのことで?」
昌作は自分の心が憂鬱になってくるのを覚えた。達子が沢子のことを云ってるのだとは分ったが、それを今話したくなかった。そして言葉を外らした。
「何か僕に急な御用でも出来たんですか。」
達子は眼を見張った。
「急な用ですって?……あなたはもう忘れたの?……四五日うちに返事をするって約束したじゃありませんか。あれから今日で幾日になると思って? 丁度五日目ですよ。まあ、馬鹿々々しい! 当のあなたが平気でいるのに、私達だけで心配して……。あなたくらい張合いのない人はないわ。片山はね、あなたがあんまり心をきめかねてるのを見て、何か岐度他に心配があるに違いないと云うんでしょう。私あなたの言葉もあったけれど、実はこうらしいって、あなたが話したあのことを打明けたんですよ。すると片山は長く考えていましたっけ。そして、そういうことなら、その方はお前が引受けて、まとまるものならまとめてやるがいい、何も九州へ行くことが是非必要というのじゃないから、他に東京で
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