離れて自分の内心を見守るのが当然の方法なのを、却って反対に、沢子の許へ来てしまったのである。沢子の許へ来て、何の片をつけるというのか? 昌作は九州行きを考えてみた時から初めて、沢子の存在が自分にとって光であるように感じただけで、外面的に云えば、二人は屡々顔を合して親しい心持になっているという以外に、何等の交渉もない間柄だったのである。二人の心がぴたりと触れ合う話を交えたこともあるけれど、それもただ友人という位の範囲を出でなかった。
「俺は今になって、初めて恋をでもするように、女性というものを知らない初心者ででもあるように、沢子に恋をしたのであろうか?」
 或はそうかも知れなかった。然し、いくら自分を卑下して考えても、単にそればかりではなかった。では一体何か?……その雲を掴むような疑問をくり返してるうちに、昌作は深い寂寥の中へ落ち込んだ。
 珈琲と菓子とを持って来、次にコニャックの杯を持って来た沢子が、彼の上から囁くように云った。
「あとで一寸お話したいことがあるから、待ってて頂戴。」
 昌作が顔を挙げて、その意味を読み取ろうとすると、彼女は澄ました顔で、さっさとスタンドの向うへ引込んでしまった。その入口の所に、も一人の女中――顔に雀斑《そばかす》のある年増の春子――が、壁に半身を寄せかけて佇みながら、室の中をぼんやり眺めていた。昌作は慌てて眼を外らして、やはり室の中を眺めた。
 曇り硝子に漉される電気の先がいやにだだ白くて、白い卓子の並んだ室の中は薄ら寒かった。往来に面した窓際に、若い五六人の一団の客がいた。昌作が見るともなく眼をやると、その中に見覚えのある顔が一つあった。それがしきりにこちらを見てるので、昌作はまた卓子の上に屈み込んで、珈琲とコニャックとをちゃんぽんに嘗めるように啜った。彼等は美術のことを論じ合っていた。何かの展覧会に関することらしかった。然し昌作は別に興味も覚えないで、自分一人の思いに沈み込みながら、途切れ途切れに聞えてくる単語を、上の空に聞き流していた。そのうちに、彼は我知らず耳を欹《そばだ》てた。彼等の声が俄に低くなったのにふと気を引かれて、隠れたる天才だのモデルだの好悪の群像だのという語を、ぼんやり聞いてるうちに、宮原という名前が耳に留ったのである。その時表を電車が通って、次の言葉は聞えなかったが、電車の響きが静まると、わりにはっきりと、想
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