二
霧の深い晩だった。佐伯昌作は何かに追い立てられるように、柳容堂の二階の喫茶店へ急いだ。
運命と云ったようなものがじりじりと迫ってくるのを、彼は感じたのだった。そして、達子へ対して四五日の後にと誓ったのは、寧ろ自ら自分の心へ対してだった。九州の炭坑へ行くべきなのが本当であると、彼ははっきり知っていた。片山禎輔の様子に暗い疑惑が生じたにもせよ、そんなことを考慮に入れるのは、自分が余りに卑怯なからだと思いたかった。何にも云わないで、黙って忍んで行こう!……然しその後から、橋本沢子のことが同じ強さで浮んできた。九州へ行くという意志が強くなればなるほど、同じ程度に沢子へ対する愛着が強くなっていった。九州へなんか行かないでもよいという気になれば、沢子なんかどうでもよいという男になった。昌作はそういう自分の心を、どうしていいか分らなかった。九州の炭坑のことを思うと、真暗な気がした。沢子のことを思うと、輝やかしい気がした。そういう闇の暗さと光の明るさとが、同時に、全く正比例して強くなったり弱くなったりした。そして、沢子を連れて九州へ行くことは、到底望み得られなかった。
「兎も角も俺は決心をきめなけりゃならないのだ!」
昌作は殆んど絶望的にそう呟いて、清楚とも云えるほど上品な趣味で化粧品類が並べてある店の方をちらりと見やりながら、柳容堂の薄暗い階段を上って行った。明るいわりに心持ち狭い二階の室に出ると、彼は俄に眼を伏せて、壁際の小さな円卓に行って坐った。
薄汚れのした古いペーパーの洋酒瓶が両側にずらりと並んで、真中に大きな鏡のついてるスタンドの向うから、きりっと襟を合した沢子の姿が現われた。彼女は昌作の方をじっと見定めて、真面目な顔の表情を少しもくずさずに、眼で一寸会釈をしながら、彼の方へ近寄って来た。彼は眩《まぶ》しいような気持になった。瞬間に、そうした余りに初心《うぶ》な自分の心を、自ら恥しくまた意外にも感じて、右手で額の毛を撫で上げながら、恐ろしく口早に云った。
「菓子と珈琲とコニャックとをくれ給い。」
それから袂を探って煙草に火をつけながら、卓子の上に顔を伏せた。
その時彼は初めて、何故に此処に来たかを自ら惑った。九州へ行くか行かないかについて、心に喰い込んでる彼女[#「彼女」に傍点]に片をつける、それが彼の求めてる重な事柄だった。それには、暫く沢子から
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