す。
それから、夕食をしたためて、ぼんやりして、雨が少し降り出して、雨の音を楽しく聞きながら、ぽつりぽつり話をしたり、顔を見合って他愛もなく微笑んだりして、女中がお泊りですかって聞きに来たのへ、平気で首肯いて、別々の床へはいって、安らかに眠ってしまったのです。
こう簡単に云ってしまうと、君はそれが本当でないように思われるでしょう。然し実際にその通りだったのです。僕はこう思います、妻子のある相当年配の男が恋をする場合には、その恋は極めて肉的な淫蕩なものであるか、或は極めて精神的な清浄なものであるか、そのどちらかだと。そして僕のは、全く後者だったのです。その上僕の眼には、沢子がごく無邪気な少女のように映じていたのです。前に云ったように、ごく晴れやかな娘だったのです。僕はその晩彼女と対座していながら、どうして自分はこんな若い娘に恋したのかと、幾度自ら怪しんだことでしょう。そしてその時の僕の気持は、恋ではなくて、可愛いくてたまらないといったような、そして親しいしみじみとした愛だったのです。彼女の方でも、全く信頼しきった、何一つ濁りや距てのない、清らかな澄みきった眼で、僕をじっと見ていたのです。僕達は何もかもうち忘れて、うっとり微笑まずにはいられませんでした。恋と云うには、余りに親しすぎるなつかしい感情だったのです。
それは、一時の幻だったのでしょうか?
翌朝、起き上って、前日来のことがはっきり頭に返ってきた時――妙に顔を見合わせられない気持で相並んで、曇り空の下の河原の景色を眺めた時、深い底知れぬ悲しみが胸を閉ざしてきて、僕は手摺につかまったまま、ほろほろと涙をこぼしたのです。沢子もしめやかに泣き出していました。暫く泣いていてから、彼女はふと顔を挙げて、「先生……」と云いました。僕もすぐに、「沢子さん……」と答えました。そして二人は、初めて唇を許し合ったのです。
その後の僕の気持は、君の推察に任せましょう。僕達は恐ろしい罪をでも犯したもののように、慌だしくその家を飛び出して、急いで東京へ帰って来ました。その時僕の眼前の彼女は、もう可愛い無邪気な少女ではなかったのです。自由な溌溂とした若々しい一人前の女、として彼女は僕の眼に映じました。そして東京へ近づくに従って、僕は妻のことを、自分を束縛してる醜い重苦しい肉塊のように感じ出したのです。一方が若い香ばしい女性を象徴し
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