、音も立てずに凄い勢でやってくる。正夫たちはそこに棒立になって、次に水田の中に飛びこもうとした瞬間、火の玉はふっと消えた。眼の中まで真暗になり、髪の毛が逆立った。そしてどれくらいかたって、ほう、ほう……ほう、ほう……とあの澄んだなつかしい声が聞えてるのを最初に感じた。その時くらいほうほう鳥を嬉しく思ったことはない。
「その火の玉って何だい。」とチビは尋ねた。
「何だか分らない。」
チビはうそうそと笑った。
「そんなものがあるもんか。びくびくしてるから、気の迷いだ。」
「いやあるよ。ほんとに見たんだから。」
「見たような気がしたんだろう。」
「ほんとに見たんだ、二人とも。」
「二人とも……か。お化《ばけ》を見た者が二人あれば、お化がほんとにいることになる、そういうことかい。」
「どうだっていいよ。お化にしたって、いてもいなくてもどっちだっていいじゃないか。」
まだ母が生きてた頃は、晩の丁度六時に便所にはいるものではなかった。晩の丁度六時は、魔物が便所にはいってる時刻で、その時人がはいって行くと、身体のどこかを必ず掻きむしられる。祖母の時から、ずっと昔から、そうだったと、母は笑っていた。然し実際、正夫は時々、身体のどこかに自分で知らない掻き傷が出来た。晩の六時をうっかりしてたのである。そんなことも、母が亡くなって、誰もいわなくなると、もう起らなくなってしまった。
「そんなんだって、どつちだっていいじゃないか。」
チビは黙って正夫の顔を見ていた。
「どっちかにきめなくったっていいだろう。」
「そうだよ。」とチビはいった。
「じゃあなんだい。」
「それでいいんだよ。」
二人とも黙ってしまった。暫くしてチビは、ふと思い出したようにいった。
「君のお父さんは、それを、どっちかにきめたかったんだ。いや、不思議なことがあるようにって、望んでいたのかな。もう少し調子が狂っていたんだろう。いつか、夜中のことだったが……。」
夜中の二時頃だったろうか、南さんは前後不覚に酔いながらも、自動車の運転手に道筋を指示しつつ、自宅の前に辿りついた。以前は、山根さんが起きていて、姉とも妻ともつかない態度で何かと面倒をみてやったものだが、いろいろなことがあってからそれもなくなった。十二時になると彼女は寝てしまうし、正夫も既に眠っており、女中も寝てるのである。南さんは板塀をのりこして家にはいらなければならない。屋根のついてる門扉から少し離れたところ、勝手口に通ずる潜戸のわきに、高さ半メートルばかりの石の角材が植っている。もと塵芥箱をよせかけてあったものだが、今は石だけ残って車除けみたいになっている。南さんはそれに上り、板塀の頂にとびのり、そこにさし出てる百日紅の幹につかまり、内庭にはいり、竹の袖垣をまわり。玄関の戸を押開き、中にはいって戸締りをし、洗面所で顔と手を洗い、そしてまず茶の間に落着くのである。それらの行為は、ただ習慣と本能とに依るもので、如何に泥酔していても一分の狂いもなかった。
その夜も、そこまでは平素の通りだったが、用意されてる番茶を二三杯飲んでから、南さんは両腕を組んで考えこんだ。その顔は酒気も血色も引いて、冷たくしいんと蒼ざめている。眼は宙に据って動かない。それからふいに、皮肉な微笑を浮かべ、立上って押入から一枚の白紙を取り出し、それを餉台の上に拡げ、右の掌を平らに、白紙の上二三センチのところに差出して、じっと心意を凝らしてるようだった。手はかすかに震えるが、下の白紙は微動だにしない。暫くすると、彼は手を引込めて、ほーっと息をつく。また白紙を見つめて、右手をその上に差出す。そんなことを何度か繰返した後、彼はいきなり着物をぬぎすて、襯衣までぬぎ放し、下腹をなでさすり、じっと眼を定め息をこらして、白紙の上に右の掌をかざしながら、我を忘れて一生懸命になってるのだ。それにも拘わらず、不思議なことには、蒼ざめた頬の口もとに、皮肉な自嘲めいた笑いの影が浮んでいる。その裸体の半身像は、もう人間の姿じゃない……。
――少しばかげてますね。その、ちっとばかりのばかさ加減が、あなた自身の頭の隅っこにも引っかかってるので、到底、だめですよ。
チビの声に、それとも不成功のせいか、南さんは腹をたてて、白紙を引裂き、手に丸めて投げすててしまった……。
「あの時にも、もう僕は、君のお父さんを危いと思ったよ。」とチビは云った。
正夫は黙っていた。
「あんなことを、君には分らなかったのかい。」
「その……紙の上に手を差出すというのは、どうしてだい。」と正夫は尋ねた。
「普通の手品さ、ちょっとした薬品で出来る。紙には仕掛があるんだ。その紙の上に掌を差出しておくと、紙が持上って、掌にすいついてくる。それを、精神とか心霊とかの何かにしてしまうんだ。普通の紙じゃあ出来やしないよ。」
「出来そうだがなあ。」
「出来るもんか。出来るならやってごらんよ。だが、そんなこと、君のお父さんはよく知ってたんだよ。知ってながら、普通の紙でやってみた、そこんところがおかしいんだ。もっとも、初めから少しへんだったようだけれど……。」
或るカフェーの奥の室だ。二階と一階とが普通の広間――といっても狭いのだ――になっていて、二階の奥、一階のちょっとした調理場の真上のところに、小さな室が一つあった。この前の経営者、多分はマダムか何かの、寝室ででもあったのだろうが、今では、新たな主人の実験室ともなり応接室ともなっている。五十年配の独身者で、すばらしい珍奇な飲物を拵えるという念願をもっていて、外国の都会にならいくらもいそうだが、日本ではちょっと変ってる男だ。甘いのや辛いのや痛烈なのや、怪しげなカクテルを友人に試飲さしては喜んでいる。そしてなお、アマチュア・マジシァン・クラブの会員で、カクテルよりもこの方が腕前は確からしい。掌にすいつく紙は彼が考え出したもので、奇術と飲料との混血児だった。
その宮川のところで、南さんはその晩、二三の知人と共に、怪しげなカクテルを飲み、宮川の奇術を見、更に紙の実験をしたのである。その時誰かが、掌に紙がすいつくのは、薬品のせいばかりでなく、精神力も多少働くのではないかといい出し、それがきっかけで、酔余の競争が始まった。どういう薬品か、宮川はそれを秘密にしているが、紙の上に掌をかざしていると、掌の温度が紙にぬられている薬品に作用して、そこに化学的変化が起り、紙は掌の方へすいあげられるのである。随って、掌と紙との距離が近いほどよく、五センチと離れてはうまくいかない。それを、煙草一本ほどの距離でやってみせると、南さんは主張し出し執拗に努力してみた。精神力の支持者となったのである。敷島一本の長さを八センチ半とすれば、それだけの上から化学作用に精神力を加えて紙をすいあげるというのだ。用意の紙を何枚も出させ、額に汗を浮かべて、夢中になって手を差伸してるところは、正気の沙汰とは思えなかった。しまいには腹を立て、先に失敬するといいすてて、一人で出て行ってしまった。
それから一時間ばかりして、南さんは、一人、或る酒の店の木の卓によりかかり、酒をのみながら、黙然と考えこんでいた。そこへ、中年の男が一人はいって来た。狭い家で、卓子は幾つもなく、南さんの前が空《あ》いてるばかりだった。南さんは顔をあげ、躊躇してる男に向って、愛想よく前方の席をすすめ、自分の小皿を引寄せ、やって来た女中に卓子を拭わせ、そして初対面の男に向って、馴々しく話しかけた。酒というやつはへんなもので、全くやめてしまおうと思う日と、やたらに飲んでやれと思う日とがあって、中途半端にいい加減に飲むという気は、決して起らないもんですなあ……、とそんなだしぬけな話なのである。すると、ジャケツの上に背広をひっかけてる相手の男は、日焼けした顔に善良そうな笑みを浮かべ、指の節々が太く爪先がささくれてる頑丈な手で、用心深く猪口《ちょこ》を口元に運びながら、煙草はやめたが、酒はなかなかやめられず、今日も女房に内緒でちょっとやってるんで、と変に淋しいことを云い出した。煙草をやめる時はハッカを用いた。もう八年になる――八年だ。酒はどうも身体にわるいが、工事請負の仕事の関係上、飲むことが多く、いくら飲んでも酔わないのが悪い癖で、多少中毒のきみらしい……。
――ほう、そうですか。中毒なんか構わないが、飲んでも酔わないというのは、そりゃあ実際悪い癖ですね。そんな悪い癖をもっていちゃあ、いつまでも駄目ですよ。酒をやめるには及ばないが、飲んだら酔うようになさい。それも肚の据え方ひとつですよ。へんなもので、相手が酔ってしまうと、こちらはいつまでも酔えなくなる。後手に廻るわけですね。先手に廻らなくちゃいけません。戦争と同じで、機先を制するってやつです。相手がなくて、一人でやってる時には、酒そのものが相手です。酒に対して機先を制してやるんです。一本……二本……或は三本、これで酔うんだと決心するんですね。酔うんだという肚をすえてかかるんです。それから次には、酒を軽蔑することです。酒をのみながら酒を軽蔑する、そこが大事なところです。飯をくいながら飯を軽蔑する、女を愛しながら女を軽蔑する、社会に生活しながら社会を軽蔑する、人間と交りながら人間を軽蔑する、酒をのみながら酒を軽薄する……そこから微妙な味がわいてくるし、ほんとに酔えますよ。それでもまだ面白くならなかったら、ほんとに酔えなかったら、みんなうっちゃってしまうんですね。酔ってやるぞという肚をすえて、本当のところは軽蔑してかかって、そして飲むんですね……。
そんな忠告をしながら、南さんは煙草をふかし酒を飲んでいたが、ふと、ああ奥さんが待っていらしたんですね、と相手を促して座を立たしてしまった。それから一人きりになって、へんに軽蔑的な嘲笑的な笑いを、何に対してだか、口元に漂わせながら、また一本飲んで、そこを出て行った。大して酔ってもいないような様子だったが、足がふらついていた。ふらつくというよりも、膝頭に力がないらしかった。街路を車道の方におりて、真直に歩いてゆく。その一歩一歩が、へんに弾力性を失っていて、今にも膝ががくりと折れてそこに坐ってしまいそうだった。重病の前や後に人はそういう歩き方をすることがある……。
「でも、病気じゃあなかったんだ。」と正夫は云った。
「それほど酔ってたんでもないよ。」
「力がぬけていたんだろう。」
「だからおかしいのさ。ひどく勉強したとか、夜眠れなかったとか、そんなんなら分るけれど……そして病気でもなかったんだとすると……。」
正夫は黙っていた。
「僕もいろいろ忠告してやったが、よく分らなかったようだ。」
「君の忠告なんか駄目さ。」
「なぜだい。」
「お父さんは何かほしかったんだと思うよ。」
「何がさ。」
「それが、僕にもよく分らないけれど……。」
「どうせつまらないものだろう。」
「だけど、へんなことがあるよ。」
「また、大昔の話か、お化の話かい。」
「ちがう……本当にあったことだよ。」
学校から、正夫は遠足に行ったことがある。同級の者だけそろって、高尾山に登った。山の上には、いろんな物を売ってるなかに、竹細工の笛がたくさんあった。たいていの者がそれを買った。神社に詣って、裏山で弁当をたべて、自由に遊べる時間になると、あちらでもこちらでも、笛を吹きならした。木立の中にはいっていって、小鳥を呼びよせるんだと、夢中になってる者たちもあった。その一人が、足をふみ外して、急な崖からころがり落ちた。ちょっとした木の茂みに隠されてる、穽みたいな崖だった。その中にすぽっと落ちこんだので、近くの者たちはびっくりした。それから騒ぎになった。先生も飛んできた。幸に、崖はそう高くなかった。廻り途をして、崖下に出ると、落ちた生徒はそこに倒れたまま、きょとんとしている。肱と膝とを少し擦りむいただけだ。おかしいのは、右手に何か握りしめていて、助け起こされ、介抱され、我に返って泣きだしても、なお右手を握りしめている。漸くその手を開かしてみると、笛ではなく、小石だった。どこで拾ったの
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