りもせず、でも急ぎもせず、[#「、」は底本では「、、」]逃げていく。先廻りして前に出ると、するりと横にそれて、やはり見返りもせずに、のろのろはってゆく……。ひとをばかにしてるんだ。正夫は腹をたてて、いきなり走りよって、その首のあたりを掴んだ。ひやりとした。次に、肩と腰のあたりがひやりとした。蛇がのたくったのだろう。正夫はもう夢中で、手に力をこめて、家の方にやっていった。蛇は頭で正夫の手にからみつき、胴から下はだらりと、尾の方は地面にひきずっている。正夫はいつしか大きい声でわあわあ泣いていた。泣きながら、蛇をひきずって、家の中にはいっていった。怖ろしいのか、嬉しいのか、一生懸命なのか、とにかく無我夢中で、わあわあ泣いてるのだった……。
「ほんとに泣いちゃったよ。」
「そんな泣き方ってあるかい。」
「なぜだい。」
「そんなの、高いとこから落っこちる時、わあっと声をたてるようなもんじゃないか。」
「ちがうよ。」
「喧嘩して、相手を押えつけて、殴りつけながら、わあわあ声をたてるようなもんじゃないか。」
「ちがうよ。」
「そうかなあ。僕は一度も泣いたことなんかないから、分らないが……。」
「君はばかだからさ。」
「どうして?」
「ばかな奴は泣かないよ。」
「豪い奴が泣かないのさ。」
「豪い奴だって泣くよ。泣かないのは、ばかかひねこびれてる奴だけだ。」
チビは耳をかいて、目をぱちくりやった。正夫は得意になった。
「誰だって泣くさ。ただ、めったに本当に泣かないだけだ。君が云うように、涙ぐんでくよくよするのなら、女の児だって婆さんだって、しじゅうやってるよ。」
「しじゅうにこにこしてるよ。」
「そしてへんな時に、思いがけない時に、何でもない時に、しくしく泣きだすんだ。そしてひどいのになると……。」
正夫の東京の家の近くに、境内がのんびりと広い神社があって、その仁王門にたくさんの鳩が巣くっていた。よく人に馴れていて、掌の中の豆までつっつくのだった。幼児を背負った娘や子供の手を引いた婆さんなどが、そこの広場に幾人も見えた。日曜などには豆売りの女まで出ていた。
その人たちの中に、わりに上品に見える老婆が一人いた。誰も連れず、一人きりで、いつも豆を持っていて、それを長い間かかって鳩にやった。そしてきょとんとして、あたりを見廻したり、何か低く呟いたり、また石の腰掛に坐りこんで、頭を垂れてじっとしてることもあった。神社のまわりを、何度か廻ることもあった。拝殿の前にお詣りすることは決してなかった。
子供たちも、鳩も、そのお婆さんを見覚えていて、その周囲に集った。鳩はくくと喉を鳴らして一面に群れつどい、子供たちは目を輝かした。お婆さん自身だけがへんに没表情で、放心したようで、機械的に少しずつ豆を投げてやった。妙に人を寄せつけない縁遠いようなものがあった。その、震えてる唇は何を呟いてるのであろうか。石の腰掛の上で胸に垂れてる頭は何を考えてるのであろうか。どうかすると、雨の雫が木の葉にたまるように、皮膚のたるんでる頬に涙が、全く無心にかかってることがあった。小さな眼のすんだ光がふっと曇って、涙が睫毛いっぱいたまってることがあった。それでも彼女自身はやはり、冷く静まり返っていた。誰もその涙に注意を配る者はないようだった。本人も自分の涙を知らないようだった。
「あんな泣き方は、ほかでは見たことがない。変ってるよ。」と正夫は云った。
「その婆さんは、今でもいるのかい。」
「今年の春頃いたんだ。それから、もう出て来なくなった。」
「あの……草履をはいてた婆さんだろう。」
「うん。知ってるのかい。」
チビは肩をすくめて笑った。
「あれは、気狂《きちがい》だよ、もう死んだよ。」
「気狂いだって。」
「君はあとさきのことを知らないから、分らないんだ。ばかな話さ。」
その婆さんに、可愛いい孫娘が一人あった。四五歳の可愛いい盛りだ。それが孫だから、可愛いい以上だ。婆さんはそれをつれて、よく鳩と遊びに出て来た。その娘が、肺炎になって、病院で死んだ。婆さんほすっかりぼけてしまった。それから、一人であの神社に出て来るようになった。雨の日は、家でしくしく泣いている。天気になると、けろりとして、豆をもって鳩のところに遊びに来る。或る時、縁日の晩に、風呂敷いっぱい玩具を買いこんできた。花笄や、笛や、太鼓や、独楽《こま》や、花火や、木琴や、絵本や、積木なんか、いろいろなものを、座敷中にぶちまけたもんだから、家の者も、少しおかしいなと思いだした。
それから少したってからだ。婆さんは病院にやっていった。丁度院長の回診の時だ。大勢いっしょにはいってる三等病室で、院長は医員や看護婦を随えて、一わたり診《み》てしまって、出て行こうとした。そこには、扉を背にして、一人の婆さんがつっ立っている。棒のようにつっ立って、頭をこまかく震わせて、ぎらぎらした目付で、室の中をじっと見廻している。だが本当は何も見ていないで、視線は宙に迷ってるのだ。その近くまで行って、院長は初めて気がついた。ぎょっとして立止った。婆さんは動こうともしない。ただならぬ気配《けはい》になった。幸にも、医員のうちに、婆さんを見覚えてる者がいた。それから騒ぎで、ただぼんやりしてる婆さんを、いろいろ宥《なだ》めすかしたり、道理を説いてきかしたり、しまいに看護婦をつけて送り届けた。
家の者たちは始末に困った。時々気がへんになるというだけで、狂人ときまったわけじゃない。すると気の利いた医者がいて、婆さんの室に、亡くなった娘の形見の着物を一枚、衣紋竹にかけて吊さした。ただぶら下ってるだけの着物だが、効果があった。それを見て、婆さんはおとなしくなった。それから寝ついた。四五日してぽっくり死んだ。吊された着物に息をとめられたようなものだ。然し静かな死に方だった。笊の上の鮒が、口をぱくっぱくっとやるように、最後に大きく口を二三度動かして、喉がぐるっと鳴って、それきりだった。
「僕はそれを見たんだよ。」とチビはいった。
正夫は黙っていた。
「どうしたんだい。」
正夫はまだ黙っていた。
「よく分らないのかい。僕にだってよくは分らないよ。おかしなものさ。恋人の着物をぶら下げておいて、撫でたり抱きしめたりする者もあれば、あの婆さんのように、ぶら下ってる娘の着物を見つめて、口をぱくぱくやって死ぬ者もあるし、僕にだってよく分らないよ。」
正夫はやはり黙っていた。
「今の話、君は恐《こわ》がってるんだね。」
正夫は頭を振った。
「鳥のことを考えていたんだ。」
「鳥? 何の鳥だい。」
「何という鳥だったか……田舎に行くと、田園の中で、真暗な夜に、ほうほう……と鳴いてるのがいるだろう。」
「うん、いるよ。」
「あれね、子供を探してるんだって話があるよ。子供がいなくなって、どこへ行ったか分らない。お母さんは心配して、あっちこっち探し廻った。いくら探しても分らない。しまいに鳥になって、夜通し歩きまわって、今でもやはりほうほう……と呼びつづけているんだって。」
「そんな話、君はほんとにするのかい。」
「作り話にきまってるさ。」
「じゃあ、どうなるんだい。」
「お婆さんのことから、その鳥を思い出したんだよ。僕はその鳥の声がとても好きだ。こっちに来る前、田舎に行ってた時、毎晩きいた。真暗な夜の田圃の中って、すごいよ。でもその鳥が鳴いてると、安心するんだ。どんな真暗な夜出ていっても、どこかで、ほうほう……鳴いてるんだ。」
正夫は田舎に半月ばかり行ってた間に、殆んど毎晩、川漁にいった。夜の川ほど神秘に満ちてるものはない。浅瀬があり、深い淵があり、洞窟があり、泥中のもの、陸上のもの、水中のもの、更に闇夜のものなど、あらゆるものがうろついているのである。
大きな河の浅瀬でする投網は、さほど面白くなかった。流し鈎の釣りもさほど面白くなかった。刃物での魚切りは少し変っているが、もう稲がのびすぎていた。
何よりも心躍るのは、ウケをつけておいて魚をとることだ。竹を細くわったのを煽んで、円い箍のまわりにとりつけ、先端はせばまるようにし、ねじりながら縄で結えられるようになっている。そして頭部の、いわば竹の簀子の円筒の中に、も一つ竹の簀子の漏斗形がとりつけてある。魚がその漏斗形のところから中にはいると、そこから逆に外に出ることはむずかしく、他に出口はなく、全くその中に囚えられてしまう。そのウケを、魚の通路につけて、そこからだけ水を通し、他は水草や泥でせき切ってしまうのである。
おもに水田と川との間の、畦の一部を切りとった水口に、ウケをつけるのだ。魚は習性として、夕方、いくらか暮れはじめる頃から、水田の中に餌をあさりにはいってゆく。そして朝早く払暁の頃に、多くはまた川に戻ってしまう。それ故夜になって、水口にウケをつけに行くのだ。水の流れが、田から川へか或は川から田へか、それは問題でない。田から川へ戻る魚がはいる向きにウケをつけておく。それを早朝、まだ朝日のささない頃に、引上げに行くのだ。
昼間ぶらぶら歩きまわって、魚のいそうな場所を物色し、そこの田の水口を一杯あけ放っておけば殊によい。
手頃な大きさのウケを二つばかりかついで、夜の九時頃出かける。闇夜が最もよいのだ。闇夜といっても、水の面はほんのり白い。それをたよりに、草深い小道をすたすたやって行く。堰の水音がしてるだけで、しいんとした夜である。水は川にも田にも満々と湛えている。川辺の猫柳が奇怪な形で蹲っている。時とすると、行手の道の上に、小坊主がすっくと立って、じゃぶりと川の中に飛びこむ。川獺のとんきょうな奴だ。それももう人を化かすことは出来ない。去年の秋には、村外れの爺さんの大きな藻蟹のウケに一匹はいりこんで、まんまと生捕られ、爺さんの自慢の毛皮となっている。河童なんかも、もう夢の世界に逃げこんでしまっている。それでも、夜の川辺には、何かしら奇怪な不気味なものがうろついている。だがみんな影だけだ。ほうほう鳥が、濁りのない落着いた声で鳴いている。ほう、ほう……ほう、ほう……。近いようでもあり、遠いようでもある。決して一つ処にじっとしていない。空には星がきらきら光っている。
目指す水口にやって行く。ウケを五分の四ほど水に沈め、他は水草や泥でせき切り、ウケの上にも水草や泥をのせておく。そして水を二三掬いあびせる。それですんだ。田にはたくさんの魚がのぼっていそうだ。魚ばかりではない。何かえたいの知れないものもいる。みんな、川に戻る時ウケにはいるんだ。大きな不安と期待……それが、家に帰るまで続き、夢の中にまで続く。
朝が楽しみだ。まだ太陽は出ない。白い朝、それからやがて赤い朝。道端の草にはしっとり露がおりている。大空の星がへんにぎらぎらしている。もう水田のものは川に戻ってしまったかしら? ウケのところまで、ゆっくり行くべきか早く行くべきか惑う。そして遂に、ウケに手をかける。ごつごつと手応《てごた》えがするのは、大きいやつがはいってるのだ。引き上げる時に、ばちばちっとはねるのは、鮒や鯉や鮠だ。重くのっそりしてるのは、鯰や鰻や鰌だ。ウケからすーっと水が引いてしまう時は、失敗で、目高の類が四五匹か、或は全く何一つはいっていないこともある。うまくいった時には、ウケ半分ほどもはいっている。
正夫は毎晩ウケをつけにいった。一人では行けなかったが、その家に十七八歳の下男がいて、いつも一緒に行ってくれて、自分で大抵やってくれた。ほうほう鳥がいつもどこかで鳴いてるのが、楽しくもあり気強かった。或る晩、ウケを三つつけて、帰りかけると、遠くに燈火が一つ見えた。それが、水田の間の一筋の道を、こちらにやってくる。闇夜のなかの胸躍るような仕事のなかでは、燈火を持った者に出逢うのは嫌なことだ。どこかに隠れようかと躊躇してるうちに、燈火は非常な速さで近づいてくる。それが、大きな真赤な火で、提灯の光でもなく、電気燈の光でもなく、松明《たいまつ》の光でもなく……えたいの知れない火の玉だ。その赤い火の玉が独りで、闇にとざされてる稲田の中の道を
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