さんの前が空《あ》いてるばかりだった。南さんは顔をあげ、躊躇してる男に向って、愛想よく前方の席をすすめ、自分の小皿を引寄せ、やって来た女中に卓子を拭わせ、そして初対面の男に向って、馴々しく話しかけた。酒というやつはへんなもので、全くやめてしまおうと思う日と、やたらに飲んでやれと思う日とがあって、中途半端にいい加減に飲むという気は、決して起らないもんですなあ……、とそんなだしぬけな話なのである。すると、ジャケツの上に背広をひっかけてる相手の男は、日焼けした顔に善良そうな笑みを浮かべ、指の節々が太く爪先がささくれてる頑丈な手で、用心深く猪口《ちょこ》を口元に運びながら、煙草はやめたが、酒はなかなかやめられず、今日も女房に内緒でちょっとやってるんで、と変に淋しいことを云い出した。煙草をやめる時はハッカを用いた。もう八年になる――八年だ。酒はどうも身体にわるいが、工事請負の仕事の関係上、飲むことが多く、いくら飲んでも酔わないのが悪い癖で、多少中毒のきみらしい……。
――ほう、そうですか。中毒なんか構わないが、飲んでも酔わないというのは、そりゃあ実際悪い癖ですね。そんな悪い癖をもっていちゃあ、いつまでも駄目ですよ。酒をやめるには及ばないが、飲んだら酔うようになさい。それも肚の据え方ひとつですよ。へんなもので、相手が酔ってしまうと、こちらはいつまでも酔えなくなる。後手に廻るわけですね。先手に廻らなくちゃいけません。戦争と同じで、機先を制するってやつです。相手がなくて、一人でやってる時には、酒そのものが相手です。酒に対して機先を制してやるんです。一本……二本……或は三本、これで酔うんだと決心するんですね。酔うんだという肚をすえてかかるんです。それから次には、酒を軽蔑することです。酒をのみながら酒を軽蔑する、そこが大事なところです。飯をくいながら飯を軽蔑する、女を愛しながら女を軽蔑する、社会に生活しながら社会を軽蔑する、人間と交りながら人間を軽蔑する、酒をのみながら酒を軽薄する……そこから微妙な味がわいてくるし、ほんとに酔えますよ。それでもまだ面白くならなかったら、ほんとに酔えなかったら、みんなうっちゃってしまうんですね。酔ってやるぞという肚をすえて、本当のところは軽蔑してかかって、そして飲むんですね……。
そんな忠告をしながら、南さんは煙草をふかし酒を飲んでいたが、ふと、ああ
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