やしないよ。」
「出来そうだがなあ。」
「出来るもんか。出来るならやってごらんよ。だが、そんなこと、君のお父さんはよく知ってたんだよ。知ってながら、普通の紙でやってみた、そこんところがおかしいんだ。もっとも、初めから少しへんだったようだけれど……。」
或るカフェーの奥の室だ。二階と一階とが普通の広間――といっても狭いのだ――になっていて、二階の奥、一階のちょっとした調理場の真上のところに、小さな室が一つあった。この前の経営者、多分はマダムか何かの、寝室ででもあったのだろうが、今では、新たな主人の実験室ともなり応接室ともなっている。五十年配の独身者で、すばらしい珍奇な飲物を拵えるという念願をもっていて、外国の都会にならいくらもいそうだが、日本ではちょっと変ってる男だ。甘いのや辛いのや痛烈なのや、怪しげなカクテルを友人に試飲さしては喜んでいる。そしてなお、アマチュア・マジシァン・クラブの会員で、カクテルよりもこの方が腕前は確からしい。掌にすいつく紙は彼が考え出したもので、奇術と飲料との混血児だった。
その宮川のところで、南さんはその晩、二三の知人と共に、怪しげなカクテルを飲み、宮川の奇術を見、更に紙の実験をしたのである。その時誰かが、掌に紙がすいつくのは、薬品のせいばかりでなく、精神力も多少働くのではないかといい出し、それがきっかけで、酔余の競争が始まった。どういう薬品か、宮川はそれを秘密にしているが、紙の上に掌をかざしていると、掌の温度が紙にぬられている薬品に作用して、そこに化学的変化が起り、紙は掌の方へすいあげられるのである。随って、掌と紙との距離が近いほどよく、五センチと離れてはうまくいかない。それを、煙草一本ほどの距離でやってみせると、南さんは主張し出し執拗に努力してみた。精神力の支持者となったのである。敷島一本の長さを八センチ半とすれば、それだけの上から化学作用に精神力を加えて紙をすいあげるというのだ。用意の紙を何枚も出させ、額に汗を浮かべて、夢中になって手を差伸してるところは、正気の沙汰とは思えなかった。しまいには腹を立て、先に失敬するといいすてて、一人で出て行ってしまった。
それから一時間ばかりして、南さんは、一人、或る酒の店の木の卓によりかかり、酒をのみながら、黙然と考えこんでいた。そこへ、中年の男が一人はいって来た。狭い家で、卓子は幾つもなく、南
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