の聞きましたところでは本当らしゅうございますよ。」
「誰からお聞きなすったんですか。」
「誰からともなく……まあ、世の中から、とでも申したら宜しいでしょうか。」
「それは、あなたたちだけの世の中でしょう。あなたがたの仲間のことでしょう。僕は断っておきますが、普通の人間、庶民の中の一人として、暮しているんです。」
「ですから、あまり勝手なことをなさらないで、普通のひとらしく、御結婚でもなすったらいかがでしょう。」
志村は眉をひそめて黙りこんだ。
房代夫人は彼の手首を押えた。
「ねえ、志村さん、お気に障ったか知れませんが、ほんとはあなたのことを心配してるんですのよ。御結婚のこともゆっくり考えておいて下さいね。ほんとにお似合のかたがございますのよ。あ、そうしましょう、こんど、やまぶきでしたか、やまぶきへお伴しますまでに、お気持ちをきめておいて下さいましね。」
「やまぶき……ほんとにいらっしゃるんですか。」
「ええ、いつでも、日をきめて下さいますれば。」
房代夫人は立ち上った。何の話もなかったかのように、小さな眼に笑みを浮べて会釈し、広間の方へ去って行った。肥満した体の腰が太く、腰から下の姿がずんどうだった。
志村はやたらに煙草を吹かした。泥酔後の深夜、ふと眼覚めて、気恥しいことをぽつりと思い出す、あの気持ちに似ていて、なにか叫びだしたかった。そして腹が立った。
河口と吉岡が通りかかって、志村の前に足を止めた。二人とも少し酔っていた。
「今井夫人につかまってたようだね。」
「なにか意見されたんだろう。」
「あのひと、ちょっとうるさいからね。」
「なぜ逃げ出さなかったんだい。」
志村は返事もせず、そっぽを向いていた。それから黙って立ち上り、二人の方は見向きもせず、広間へやって行った。
今井房代夫人は、数人の男女客の上座について、人々の話に頷いてみせていた。志村はその側へ行き、あたりの人に聞えるぐらいな声で言った。
「来週の月曜日にしましょう。」
房代夫人は平然と答えた。
「やまぶきのことでしょう。迎いに来て下さいますわね。」
「六時頃……。」
「お待ちしております。」
志村は人々の視線を浴びながら、室を出て行った。
志村は房代夫人との約束をすっぽかすつもりだった。フグの茶漬けなどといううまくもないものを食う物好きもないものだし、やまぶきという割烹旅館のことも固よりでたらめである。房代夫人もそれぐらいのことはだいたい感づいてる筈だった。
ただ、志村はなんとなく腹の虫が納まらなかった。房代夫人の打明け話は、彼を侮辱するような毒素を多く含んでいた。彼女自身は恐らくそのことを意識していなかったろうが、それとこれとは別問題だ。
一般女性の浅間しさというものを、志村は漠然と感じてはいたが、直接それに頭をぶっつけた気がした。あの数々の話そのものが、女性の浅間しさを暴露したものであり、そんな話が伝えられてること自体も、同然であった。外にもどんな話が流布されてるか分らなかった。そしてその浅間しさが、志村を侮辱してくるのである。
男女間の性的行為に魅力を感じなくなったのは、無軌道な行動のせいだったろうか。あるいは、魅力を感じなくなったために、無軌道な行動をするようになったのだろうか。それが志村自身にも分らなかった。恐らく両者は相互関係にあったのだろう。それにしても、一般に女性があれほど浅間しいものでなかったなら、もっと立派な品性のものであったなら、と志村は自ら言った、俺はこんな侮辱を受けないですんだろう。
そうは思っても、志村はやはり腹の虫が納まらなかった。むしゃくしゃして、朝酒を飲み、晩酒を飲んだ。酒の習慣というものはおかしなもので、朝に飲むと、晩にも飲みたくなり、晩に飲むと、朝にも飲みたくなる。きりがないのだ。
月曜の朝、志村が自宅で酒を飲んでいると、房代夫人から電話があった。志村は眉をひそめて、電話口に出た。――房代夫人は約束を忘れていなかったのである。ただ、少しく模様変えをしたいから、やまぶきには室を取らないでおいてほしいとのこと、そして必ず彼女の家に来るようにとのこと、六時には待ってるから忘れないようにとのこと、それだけ繰り返し念を押して、「御機嫌よろしゅう。」
志村は舌打ちして、もう成り行きに任せることにきめた。
午後、彼は会社に顔を出し、夕刻、行きつけの小料理屋で酒を飲み、飲んでるうちに時間を過ごして、今井家へ行ったのは七時頃だった。
女中は志村の顔を見るとすぐ、十畳の日本座敷の方へ案内した。懇意な顔が揃っていた。河口と吉岡、有松夫人と久木未亡人、それに房代夫人、五人で食卓をかこんでいた。フグ料理の大皿が並び、酒の銚子が何本も出ていた。
房代夫人はくだけた調子で志村を迎えた。自宅ではいつもそうなのである
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