「六時のお約束でしたのに、なにしていらしたの。お後れなすった罰に、出迎えませんでしたわ。」
 志村が座席に落着くと、彼女は眼でちらちら笑いながら言った。
「やまぶきへお伴する約束でしたけれど、そのような割烹旅館なんか、どうせでたらめなことにきまってますから、宅でフグ料理を差上げることに致しましたの。ここが割烹旅館のおつもりで、酔いつぶれてお泊りなすっても、宜しゅうございますわ。」
 有松夫人と久木未亡人は眼を見合って頼笑み、河口と吉岡は笑いだした。志村に関するいろんなことがぶちまけられては、酒の肴にされていたに違いなかった。有松夫人も久木未亡人も、志村が例の「内緒話」を囁いた相手なのだ。
 志村は度胸をきめて、猪口を取り上げた。
 旅行中で不在の主人の代理だと、房代夫人は言って、床の間の掛軸を指し示した。今井氏が愛撫してる竹田の山川画で、その斜め下の花瓶には、寒菊が清楚に活けてあった。
 房代夫人とならば、たとい割烹旅館に泊りに行こうと危険なことはないと、この自宅では明かに分った。彼女が肥満していて、立てば腰から下がずんどうで、坐ればどっしりと揺がない、その故ではなかった。なにか愛慾ばなれのした中性的なものが彼女にはあった。今井氏が贔屓にしてる年増芸者の面影を、志村は頭に思い浮べた。
「志村さん、なにを考え込んでいらっしゃいますの。」と房代夫人は言った。「御結婚のこと、お覚悟はきまりましたの。」
「あのような話、きめないことに覚悟しています。」
「あ、場所ちがいでしたわね。やまぶきに参った時というお約束でしたから。」
「おや、君に結婚の話でもあるのかい。」とふしぎそうに吉岡が言った。
「やまぶき同様、あってなきが如く、なくてあるが如しさ。」
 志村はなにか忌々しくなって、それからは、言葉少なに酒ばかり飲んだ。
 志村が黙りこんでも、一座は賑かだった。食べものの話、戦争の話、映画や演劇の話、それから殊に人の噂は尽きなかった。ただ、どこかに一線があって、それから先へは踏み込めないようだった。
 志村は今井家へ来る前から飲んでいたので、次第に酔いが深まり、意識が途切れがちになっていった。踏み込んでならない一線を突破しようとしたらしく、何のきっかけでか、へんなことを話した。
 銀座の或るキャバレーの踊り子を誘い出して、ホテルへ行き、彼女を裸にさして、その臍を嘗め、そして
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