夢の図
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)離屋《はなれ》
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 木村は云う――。
 物を考え、考えあぐんで、椅子に身を託し、或は畳の上に身をなげだして、なお考え続けながら、いつしかうつらうつら仮睡する者は、如何に多くのものを喪失していることでしょう。その頭の中には、思念の断片、さまざまな心象が、とびとびに明滅しています。仮睡者はそれらを意識するが、捕捉することは出来ません。意識しただけで、取逃してしまうのです。はっきり眼をさまし、立上る時には、頭の中に残ってるものは殆んどなく、ただ空莫としています。
 喪失されたそれらの、思念の断片、さまざまな心象は、積極的な能動性を持っています。それらが現実にぶっつかって散らす火花は、やがて、現実そのものの奥底をも照らし、現実そのものをも変貌させます。この火花に抵抗し得る壁は存在しません。
 四方無壁のこの境地に、人は安住し得ないのでしょうか。安住し得るのは、思考し続ける仮睡者のみでしょうか。――思考し続ける仮睡者が喪失するところのものを、日常の意識のうちに回復し維持したいものです。

 また、木村は云う――。
 甚しい酩酊者は、全く意識がなくなることがあります。或る情景までははっきり自覚しているが、そこで一線を劃して、それから先は全然の空虚となります。而もその空虚な時間のあいだ、普通の行動をして、大して取乱すこともない……らしいのです。「らしい」というのは、他人の云うところであって、酩酊者自身にとっては、無自覚な機械的な動きがあるのみで、そういう人造人間的な動きは、あってもないに等しいのです。
 かかる空虚は、単に記憶の喪失から来るのでしょうか。否、彼自身にとっては、それは別個の問題なのです。
 酩酊者は、截断された強烈な世界に生きています。そこでは、時間と空間とがたち切られて、事象のなまなましい断面だけが拡大されます。この拡大された断面にあっては、あらゆる価値の転換も可能であり、あらゆる重力の顛倒も可能であります。一切の関係が打切られて、物体の独自な存在だけが強調されます。酩酊者自身も既に、見る者ではなくなり、見らるる者となります。見らるる者が自意識を回復せんがために、見る者の地位に復帰しようとする試みのうちに、あらゆる飛躍がなされます。この飛躍は、時あって、世界全体をひっくり返すことがあります。
 酩酊者があくまでも意識をもち続けるということは、往々にして、世界全体をひっくり返す飛躍をも、意識的に乗り越すということに外なりません。――これを乗り越すことによって、酩酊時の空虚な時間に喪失した如何に多くのものが捕捉され回復されることでしょう。

 また、木村は云う――。
 人は日常如何に多くのことを捕捉したり喪失したりしていることでしょう。いろいろの顔、いろいろの名前、いろいろの事柄が、時あって思い出され、時あって忘れられます。ごく親しい身辺のものから、ごくはるかな夢幻的なものに至るまで、多種多様なものが、時あって、意識のなかに飛び込んでき、意識のなかから脱け出します。そしてそれは大抵、肉体の変動の瞬間に起ります。その瞬間が隙間なのです。例えば、立上ったり、寝転んだり、階段を下りたり、外に出たり、街路を曲ったり、自動車や電車に乗ったり、そういう瞬間の隙間に起ります。
 それ故、種々の捕捉や喪失を任意になし得るようにするには、長い曲りくねった廊下を造ることです。廊下の幅は広めに、一間ほどもあればよいでしょう。それが十間ばかり真直に続きます。そして曲折し、それからまた真直に十間ばかり、そしてまた曲折します。曲折の角度は不整で、三十度、四十五度、九十度、百二十度、などさまざまです。つまり、十間ほどの長さの廊下を、いろいろな角度をもたせて継ぎ足すのです。そしてその各の曲り角に、前の一片から真直にぬけられる扉があり、いつでも外に出られるようになっています。廊下の中は、ぼんやりした薄ら明りです。
 論理の糸口が切れたり、思考の筋途がもつれたり、何か余計なものが場所をふさいでいたりする時、その廊下を歩くのです。誰かの面影が捉え難かったり、誰かの面影が立塞っていたりする時、その廊下を歩くのです。自分のうちの何かが渾沌としていて思い惑う時、その廊下を歩くのです。懐手をし気を安らかにして、歩くという意識も殆んどなく、廊下の続くとおりに進んでゆきます。するとそのさまざまな曲り角に応じて、さまざまなものが死に、さまざまなものが生き上ってきます。これだと思うものを捉えた時に、それを大事に胸に懐いて、扉から真直に外へぬけ出すのです。満腹の時もよいでしょうし、空腹の時もよいでしょうし、酒に酔っていたならば更によいでしょう。
 その廊下は、さまざまな捕捉の、またさまざまな喪失
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