。そして永久に、未練とか口惜しさとかいうようなものが、後に残らないように致したいものでございます。」
その声が、木村の眼界を塞ぐのである。それがたとえ、真実のものであろうとも、或は偽装のものであろうとも、その中には甘い蜜を含んでいる。そういう蜜をなめる場合には、彼が園の中の、蝦蟇も亀も蝦も蟹も、その他のものが凡て、生気を失ってしまうのである。
――木村は、今ではもう、何の欲望も残らず、身体は空っぽとも云えるほどに澄み返り、明晰な眼を見開きたいような生理的状態にあったのである。
秋子は木村の室に坐りつづけている。見るものすべてが、涙の種である。いや、すべてが涙の種となるような感傷の谷間におちこんでいるのである。ヒステリーも起さず、はしたない振舞もせず、しみじみとした感傷の谷間におちこんでることは、一方では彼女の満足な状態を示すものであろうか。実際彼女は、一方では、満足な状態にあった。長いあいだ子宮水腫になやみながら世帯の仕事になやんでいた母親をも、これから手厚くいたわってやろう。出来るならば手術もさせてやろう。女中もおこう。妹には何を習わせることにしようか。次から次へと彼女の空想は開けてゆくのである。それもただ一つ、某氏へ身体を提供したからのことであり、ただそれだけのことである。彼女はそれを決行した。そして今でもなお木村を愛してると思っており、今後も愛し続けるだろうと思っている。そのために、交渉がとぎれがちになってる木村に、わざわざ別れを告げに来たのである。来てみると、涙のなかの甘い抱擁、それ以上彼女が求めるものは何があったであろうか。彼女は満足なのである。満足だからして、しみじみと涙ぐんでいるのである。
木村の机の上にある粗末な電気スタンドからの光りは、彼女が幾度か夜更けに身に浴びたものだった。だから今、この夕方の薄暗がりに、その電灯をともすことは躊躇されるのである。机の前のメリンスの坐布団の牡丹の柄《がら》は、彼女が一緒に見立てたものだった。その色褪せた花模様を、彼女は夢み心地に見やるのである。本箱の抽出にさわってみると、鍵がかってあるけれど、そこには、彼女の幾通もの手紙がしまってあることを、彼女もよく知っている。その中の二、三の文句は、今も彼女の頭に残っていて、更に修飾されて蘇ってくるのである。――それらのものすべてが、満足な状態にある彼女を、しみじみとした感傷の谷間にひきずりこむのである。
ただ彼女に不満なのは、木村の心がはっきり捉え難いことだった。自分に対する木村の心のつながりを、どこに求めたらよいのであろうか。
彼女は立上って、しとやかに、カフェーの女給としてはいとも神妙に、涙ぐみながら、木村がいる筈の庭の方へ出て行ってみる……。
庭のなかの夕闇は、木村と秋子とを捉える筈だった。木村もその晩は隙だし、秋子もその晩は店を休んでいた。どこかへ……とそう暗示した言葉のあとで、取りつくしまもない沈黙がおちてきて、その沈黙のなかで突然、大きな手が秋子の髪を掴んだ。
それが、木村の手なのである。これは、秋子にとっては思いもかけなかったことであり、木村にとっても意外なことである。秋子はただ、甘ったるい涙のうちに、木村に媚びていたのである。木村はただ、それを受け容るればよかったのである。蝦蟇や亀と半日でもにらめっこしてる木村のことだから、それが当然だったのである。それを、どうしたことであろうか。
木村の掌の中で、秋子の髪の毛は、はじめ無数の生物のように抵抗し、やがて、ぞっとするような冷酷さになってしまう。木村はそれを握りしめて、彼女をそこに引き据え、引きずり倒すのであるが、彼女は少しも逆らわず、為されるままになっている。着物の裾の乱れも気にせず、上体をくねらして、襟元だけをきっとかき合せている。
彼女のその姿態と無言とに、木村の反感は更に煽らるるのである。なぜ声を立てたり泣いたりしないのであろうか。蝦蟇にしても、人の手に捉えられる時には、くくくくと鳴声を立てるではないか。
彼女の髪を掴んでそこに引き据えた、そのとっさの意外な行為のうちに、木村は一種の夢をみる。宛も飛行機の空中戦を遠望するような光景である。彼自身が大きな機体となって、上空にまいあがってゆく。周囲から、多くの小さな機体が群がり迫ってくる。それを一つ一つ、彼は手先で払い落す。それがみな、女性の盲目な肉体なのであろうか。上空の高さは限りがなく、如何にまいあがっても、まだ足りない。小さな機体等が群がり迫ってきて、いつまでも果しがないのである。
その夢幻からさめて、彼が惘然としていると、秋子はもうそこに居ず、雑草の踏みしだかれた跡だけが残っている。それでよいのだ、と彼は自ら云う。あたしは待っておりましたなどと甘える、妖しい声ももうしなくなるだろう。未
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