ことがあります。
 酩酊者があくまでも意識をもち続けるということは、往々にして、世界全体をひっくり返す飛躍をも、意識的に乗り越すということに外なりません。――これを乗り越すことによって、酩酊時の空虚な時間に喪失した如何に多くのものが捕捉され回復されることでしょう。

 また、木村は云う――。
 人は日常如何に多くのことを捕捉したり喪失したりしていることでしょう。いろいろの顔、いろいろの名前、いろいろの事柄が、時あって思い出され、時あって忘れられます。ごく親しい身辺のものから、ごくはるかな夢幻的なものに至るまで、多種多様なものが、時あって、意識のなかに飛び込んでき、意識のなかから脱け出します。そしてそれは大抵、肉体の変動の瞬間に起ります。その瞬間が隙間なのです。例えば、立上ったり、寝転んだり、階段を下りたり、外に出たり、街路を曲ったり、自動車や電車に乗ったり、そういう瞬間の隙間に起ります。
 それ故、種々の捕捉や喪失を任意になし得るようにするには、長い曲りくねった廊下を造ることです。廊下の幅は広めに、一間ほどもあればよいでしょう。それが十間ばかり真直に続きます。そして曲折し、それからまた真直に十間ばかり、そしてまた曲折します。曲折の角度は不整で、三十度、四十五度、九十度、百二十度、などさまざまです。つまり、十間ほどの長さの廊下を、いろいろな角度をもたせて継ぎ足すのです。そしてその各の曲り角に、前の一片から真直にぬけられる扉があり、いつでも外に出られるようになっています。廊下の中は、ぼんやりした薄ら明りです。
 論理の糸口が切れたり、思考の筋途がもつれたり、何か余計なものが場所をふさいでいたりする時、その廊下を歩くのです。誰かの面影が捉え難かったり、誰かの面影が立塞っていたりする時、その廊下を歩くのです。自分のうちの何かが渾沌としていて思い惑う時、その廊下を歩くのです。懐手をし気を安らかにして、歩くという意識も殆んどなく、廊下の続くとおりに進んでゆきます。するとそのさまざまな曲り角に応じて、さまざまなものが死に、さまざまなものが生き上ってきます。これだと思うものを捉えた時に、それを大事に胸に懐いて、扉から真直に外へぬけ出すのです。満腹の時もよいでしょうし、空腹の時もよいでしょうし、酒に酔っていたならば更によいでしょう。
 その廊下は、さまざまな捕捉の、またさまざまな喪失
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