、もう小鳥の声も聞えていて、植込みの木々も若芽をふくらましていました。そこの一隅、玉砂利の上に屈みこみ、陽光のなかに立ち昇る線香の淡い煙を、肩先に受けて、黒御影石の石碑に向い両手を合せてる、そのあなたの姿は、もう未亡人ではありませんでしたよ。つまり、未亡人としてのいやらしさはなくなって、すっきりした一個の女性でした。
その時あなたは何を祈りましたか。何にも祈ることなんか持っていませんでしたね。代議士に当選することなんかも念願せず、まして厚生参与官のことなんかも念頭になく、三年前に亡くなった良人に助力も頼まず、霊界に向っての祈念もなく、つまり無心だったのです。眼をつぶり手を合せてるだけで、祈りの言葉が何もなかったのです。言葉がないことは、思考がないことです。なぜなら、物を考えるのはただ言葉に依るより外はありませんからね。その時あなたは、何の言葉も持っていませんでした。言い換えれば、何の考えも持っていませんでした。その無関心のあなたは、りっぱでしたよ。すっきりしていました。
――まるで白痴のように……。
そうです、すっきりした白痴、そんなものがあったら、どんなにか美しいことでしょう。
やがてあなたは立ち上り、女中に場所を譲って拝ませ、墓の生籬の刈り込みの工合などを見調べ、それからぶらぶらと帰途を逍遥し、茶屋に立ち寄って、墓の樹木の手入れのことを相談し、適宜な茶代を置き、貴婦人めいた挙措で立ち去りました。茶屋から出ると、足を早めて帰りを急ぎましたね。いろいろなことが一度に頭に浮んだのでしょう。活動、活動、それがあなたを待っていたのです。そしてあなたの眼は輝いてきましたが、瞳は複雑に濁っていましたよ。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「諷刺文学」
1947(昭和22)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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