代りに、あなたは高木君の方へ炬燵半分ほど体をずらせ、その手を執って、懐から肩へと持ちこんでしまいました。高木君もだいぶ酔ってはいましたが、全く切なそうな顔付で、そして息をこらし、ぼってりしたあなたの胸から肩へ掌を押しあてながら、とうとう炬燵布団の上に顔を押しあててしまいました。それから、静に手を引きましたよ。
「薄情ね、少し揉んでよ。」
 高木君は眼をつぶって、あなたの肩の肌を揉むまねをしましたが、やがてまた手を引っこめましたよ。
 あなたの肩は殆んど凝っていませんでした。だが、あなたの体は汗ばんでいましたね。
 ……炬燵が熱かった……。
 ばかな口実を設けてはいけません。あなたの身内がほてっていたからでしょう。それはとにかく、あなたは拙劣でしたよ。ただじっと相手の手を握りしめるなり、或はいきなり相手の首にかじりつくなり、やり方はいくらもあったでしょう。それを、血圧が高そうだとか、肩が凝るようだとか言って、相手の手を懐に引き入れるなんて、ばかばかしいことをしたものですね。
 あなたは雀の恋愛をじっと眺めました。さかりのついた猫の鳴き声に耳を傾けました。それならば更に、庭の隅のあの古池でも覗きこむと宜しかったでしょう。あすこでは今頃、蛙どもが必死の恋愛をやってる筈です。蛙といっても、蟇蛙ですよ。あれは面白い奴で、冬の間、土にもぐって冬眠していますが、早春の陽気に眼をさますと、のこのこ地中からはい出してきて、池にはいります。そして充分に食物もとらないうちに、早くも、雌雄一団となって、性行為に耽溺します。互にしがみつき絡まりあって、時折は水面に顔を出してはっと息をつきながら、または水中からかすかな気泡を吐きながら、その僅かな然し根強い生命力を性行為に集中します。しまいには精根つきて、仰向けに大きな腹を水面すれすれに、ぶくっと浮いてるのもあります。そんなところを、あなたは見たことがありますか。脂っこい物を腹につめこみ、酒に酔い、そして拙劣な芝居を試みる、そんな下らないことを彼等はしません。
 こんなことを私が言うのも、蛙の方があなたよりは、純粋で真摯だと思うからに外なりません。
 ――わたしは人間ですもの。
 それは勿論、あなたは人間ですよ。だけど、その人間が、素知らぬ顔をして、相手の掌を肌に押しあてたまま、うっとりと上気し、額の髪の生え際に汗の玉を浮かべ……いや髪の生え際ばかりではなく、全身の毛穴に汗ばんでいたではありませんか。
 高木君はなにか怖じ恐れて、顔を伏せ、手を引っこめましたよ。これが人間的な恋愛だったら、つまり、性慾ばかりでなくて愛情だったら、高木君は全身を投げ出したかも知れませんよ。
 そもそも、あなたが未亡人だったことがいけないのです。昂揚された恋愛というものは、男の方は別として、女の方は、令嬢でも構わず、人妻でも構わず、娼婦でも構わず、機縁さえあれば成立するものですが、未亡人ではなかなか困難ですよ。未亡人というものはたいてい、何か濁ったもの、淀んだもの、いやらしいものを、身につけています。つまりすっきりしていないんですね。すっきりした未亡人、これは特別なもので、謂わば珍宝で、めったにあるものではありません。あなたがその珍宝の一人だと自惚れてはいけませんよ。あなたは普通にありふれた未亡人の一人に過ぎませんよ。あなたの髪の毛はまだ黒々として美しく、肩はやさしい弧線を描き、瞳は澄んで輝き、唇はかるく濡いを帯び、全身の肉附は柔かく厚く……まあそういったことは事実でありますが、然し、あなたはやはり普通の未亡人で、どこかの隅っこに垢がたまっており、どこかの隅っこに臭気がこびりついており、どこかに空虚な隙間があり、どこかに歪んだものがあり、それが単に肉体的なばかりでなく、精神的にもそうなんです。つまり、真にすっきりとはしていないんですよ。
 ――未亡人というものには、人知れぬ苦労があります。
 それは苦労はありましょうよ。だけど、いったい苦労のない者が世の中にありますか。未亡人というものは、わざわざ余計な苦労を作りだして、自らそれを楽しんでるところさえありますね。性慾のことを言うのではありませんよ。世間に対抗して意地を張るからです。もっとおとなしい気持ちでおればよろしいんですがね。
 あなたもずいぶん意地を張りました。その意地が、こんど、代議士とか参与官とかいう空想で、すーっと貫きぬける見通しがついたものだから、つまり前途が開けて障碍がなくなったものだから、あなたはすっかりいい気になって、ちょっと高木君をもてあそんでみたのでしょう。だが、なんというけちな遊戯だったことでしょう。もっと大胆に、或は純粋に、せめて池の蛙ぐらいになったら如何でしたか。
 それにしても、高木君は気の毒でしたよ。あなたの大きな乳房の上の方、鎖骨のあたりや肩のあたりの、脂肪の多い肌にじかに触れ、あなたの髪の香をかぎ、あなたの息を頬に受け、あなたの膝に肱をつき、そしてすっかり萎縮してしまいました。普通なら、それぐらいのことは何でもないんですが、底にロマンチックな憧れがあるものだから、そしてあなたが全身の毛穴を汗ばましてるものだから、打拉がれた気持ちになるのも無理はありません。思いがけない局面になったのです。その局面のなかで、一個の未亡人にぶっつかったのです。彼は慴え縮こまって、黙ってウイスキーを飲みましたね。そして彼が殆んど口を利かなかったのは、あなたにとって仕合せなわけでした。もしも彼が下らないことを饒舌りだしたり、勝手な真似をしたりしたら、あなたはゆっくり玩具を楽しむことが出来なかったでしょうからね。
 あなたの方はもうそれで充分だったでしょうけれど、高木君は可哀そうに、心の置きどころが分らなくなって、ぐずぐずしてるうちに時間を過ごし、泊ってゆくようなことになってしまいました。しかも、あなたからはもう一顧も与えられず、そして散文的な情景が展開されたのですよ。
 信昭が、友人が帰ってからそこへ顔を出すと、また酒の興がまし、あなたもだいぶ飲みましたね。そして書生や女中まで呼び出して、宣言しました。
「わたしは、とうとうお断りしかねて、衆議院議員の選挙に立候補することになりました。それで、これから当分の間、人の出入も今迄より多くなるでしょうし、ご用もふえることでしょうよ。けれど、家の中のことは、手をはぶかずに、きちっとやっていって下さいよ。家庭の秩序と言いますか、それだけはいつも保ってゆかなければなりませんからね。」
 書生と女中はお辞儀をするように頷きましたね。まったく、家庭の秩序とは、大出来でしたよ。
 然しそのようなことには、信昭君なんかは無関心のようでした。若い科学者たる彼は、あなたの立候補を揶揄的な眼でしか見ていませんでしたよ。
「それもまあ、お母さんの道楽としてはいいかも知れませんね。この頃、あまり面白いことがありませんから……。」
 あなたは大袈裟に怒ったような様子をしましたね。
「また、なにを言うんですか。あなたはいつも政治を軽蔑しますが、現に、政治の中に生きていない人が一人だってあるでしょうか。」
「僕は政治の外に生きたいですね。現在のような政治ならですよ。」
 そしてあなたたちは、政治の中に生きるとか、政治の外に生きるとか、そんなことを論じあいましたね。それも親子の愛情を持って、冗談まじりに、そして信昭君の方からいい加減に調子を合せて、謂わば酒の肴にしたのでしょうか。
 そして沈黙の合間に、あなたは、冷たい微風に似た寂寥を感じましたね。この点については、私はあなたを尊敬しますよ。

 守山未亡人千賀子さん
 翌朝[#「翌朝」は底本では「習朝」]、あなたは珍らしく寝坊しましたね。前夜、ウイスキーの酔いが頭にのぼり、またいろいろな雑念が頭にのぼって、なかなか眠れなかった故でしょう。
 あなたが起きた時にはもう、信昭君も高木君も出かけていました。そのことを、あなたはちょっと意外に思ったようですが、すぐにその気持ちも忘れてしまいましたね。そしていつもより入念にお化粧をしましたね。それから、立候補のための資格審査の申請に署名をし、秋山さんのところと、党の本部とに、立候補を承諾する電話をかけました。党の本部からは、改めて然るべき人が連絡に来るということで、それで見ても、あなたの社会的地位が相当なものだということが分りますね。
 ところが、そこでちょっとあなたは迷いましたね。なにか大きな不安が襲ってきて、じっと落着いてることが出来ず、何かをしなければならないが何をしてよいか分らず、当惑しましたね。相当な社会的地位にあるあなたがいよいよ立候補の決心をしたとなると、いろいろ処理すべきことも多い筈でしたが、さて、何をどう処理すべきか分りませんでしたね。あいにく訪問客もなく、さし当って訪問すべき人も見出せず、さりとて、猫を相手に炬燵にあたったり日向ぼっこをしたりするのも、もう出来ないことでした。活動しなければならない身ですからね。
 そして、ためらい惑ったあげく、まず墓詣りをしようとあなたは思いつきましたね。これには私も意外でしたよ。然しこの墓参は、ほかに行くところもないし、さりとて何処かへ行かなければならないから、という程度のものであると共に、また、一度思いつけばそれが気持にぴったりときて、あなたの言葉をかりれば、家庭の秩序の一環をなすものでさえありました。
 思いつくと同時にあなたはそれにきめて、それからこれは異例なことですが、女中をお伴に連れてゆくことにしましたね。どうしてそんな気になったのか。あなた自身にもよく分らなかったことでしょう。まあ婦人代議士という気分のせいだったでしょうかね。そこで、書生に留守中の注意を与え、離屋に住んでる親戚の一家にも留守を頼んで、あなたは女中を従えて出かけました。
 その出しなに、ちょっと邪魔が起りましたね。小川夫人が訪れて来ました。あなたは彼女を奥の室へではなく、応接室に通して、いろいろな表情をしましたよ。
「まあお珍らしい。よくいらして下さいましたわね。しばらくお目にかかりませんので、どうしていらっしゃるかと、こちらからお伺いしようと思っていたところでございますよ。ところが、あいにく、いろいろ忙しかったものですから……。丁度、出かけようとしていますところで……どう致しましょう……急な用事がございましてね……。」
 あなたは嘘を言ってるのではありませんでした。墓参にきめると、それがもうあなたにとっては、さし迫った急用となっていたんですからね。
 小川夫人はちょっと顔を曇らせましたが、すぐに、媚びるような笑みを浮べて、また出なおして来ると言いました。そして、大した用件ではなく、先達てお頼みしておいたことについて伺ったのだと明かしました。そこで初めて、あなたは思い出しましたね。小川夫人の従弟にあたる一家が、今年はじめ大連から引きあげてきたのだが、思わしい就職口もなくて困っているので、どこかにお世話願えまいかと、そういう話だったでしょう。それをあなたは、うっかり忘れてしまっていたのです。
「あのことでございますか。分りましたわ。今すこしお待ち下さいません。よい御返事をさしあげたいと、いろいろ聞き合せてるところでございますよ。出来るだけお力添え致しますわ。」
 小川夫人が感謝し且つ依頼して、辞し去ったあと、あなたは眉根を寄せて、煙草を一本ふかしましたね。それから眉根を開いて、これはどこかへ世話してやらなければなるまいと考えましたね。それが当然のことではありませんか。
 その考えのため、あなたは一層はればれとした心地で、女中を従えて、墓地へ向いましたでしょう。
 よく晴れた日でしたね。早春の冷気も、なにか真綿にでもくるまれたように柔かでした。省線電車もさほど込んではいず、武蔵境の乗換駅でもあまり待たずにすみました。小さな女の児に、あなたは微笑みかけて、ちょっと言葉をかけましたね。
 多磨墓地の入口の茶屋で一休みして、それから墓に詣りました。多磨墓地は謂わば公園作りで、少しも陰気ではなく、あちこちに松の木が亭々とそびえ
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