、もう小鳥の声も聞えていて、植込みの木々も若芽をふくらましていました。そこの一隅、玉砂利の上に屈みこみ、陽光のなかに立ち昇る線香の淡い煙を、肩先に受けて、黒御影石の石碑に向い両手を合せてる、そのあなたの姿は、もう未亡人ではありませんでしたよ。つまり、未亡人としてのいやらしさはなくなって、すっきりした一個の女性でした。
 その時あなたは何を祈りましたか。何にも祈ることなんか持っていませんでしたね。代議士に当選することなんかも念願せず、まして厚生参与官のことなんかも念頭になく、三年前に亡くなった良人に助力も頼まず、霊界に向っての祈念もなく、つまり無心だったのです。眼をつぶり手を合せてるだけで、祈りの言葉が何もなかったのです。言葉がないことは、思考がないことです。なぜなら、物を考えるのはただ言葉に依るより外はありませんからね。その時あなたは、何の言葉も持っていませんでした。言い換えれば、何の考えも持っていませんでした。その無関心のあなたは、りっぱでしたよ。すっきりしていました。
 ――まるで白痴のように……。
 そうです、すっきりした白痴、そんなものがあったら、どんなにか美しいことでしょう。
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