二人の間を監視するほど、僕の頭は暇じゃなかった。僕はただお前達二人が仲のよいことだけを知って喜んでいた。或は愛し合うようなことになるかも知れないと、ふと思ってみたこともあるにはあるが、結婚なんてことは僕の考えの範囲外だった。
 母の様子から一寸変な暗示を受けて、僕は俄に追求し初めた。敏子は本当に浜地を愛してるのか、浜地は本当に敏子を愛してるのか、そして二人の愛は深いものなのか、その証拠が何かあるか……。
 母は自分が過でも犯したもののように、視線を落して低い声で云った。
「キスしたことがあるそうですよ。」

 敏子
 お前も馬鹿だね。それならそうと、なぜ早く僕に云わないんだ。勿論僕は何にも尋ねやしなかったし、お前から進んで話せもしなかったろうが、然し、母に打明けたくらいなら、僕にだってすぐ打明けていいじゃないか。お前は僕の平常を知りつくしてるから、僕に笑われるかも知れないと思ったろうが、いくら僕だって、処女の恋愛を否定しやしないさ。母がどんな風にお前を問いつめていったか、それを思うと嫌な気がする。――恥しい想像を許してくれよ。――だが、僕だって母を問いつめていった。汚らわしい好奇心の仕業なんだ。
 然し、好奇心ばかりじゃなかった。
 僕は、前夜のことは酒の上の冗談だと云い、縁談に賛成の旨を説いて、母を漸く安心さしたが、その後で非常に淋しくなった。長年一緒に育ってきて、幼時の親しみをまでそのまま持ち続けてる兄が、妹の婚約する折に感ずる一種の愛惜と寂寥、そういった気持はお前も認めてくれるだろうね。
 だが、そればかりでもなかった。
 僕が「幼き愛」という変な詩を書いて見せた時のことを、お前は覚えているだろう。あの時お前は僕の様子を不思議がったね。だがこれで分ったろう。僕は一体、詩を書くといつもお前に見せていた。
 それは女の感受性に敬意を表するからだ、と云えば立派だが、実は自分の詩についての自信がなかったからさ。それだもの、「幼き愛」などというあんな成心あって拵えた詩なんか、何の価値もありゃしない。それをお前はほめてくれた。いつも僕の詩を無遠慮にやっつけるお前が、いい詩だと云ってほめてくれた。僕はお前の顔色や眼付を窺いながら、ははん……と思った。それから、なおも一度読み返して、考えてる風をしてると、お前はこう云ったね。
「兄さん、それは誰との思い出なの。」
「馬鹿な。」
 僕は思わず口走って、それから詩の原稿を引裂いてしまった。
「あら。」
 その時のお前の、喫驚した顔ったらなかったよ。だが瞬間に、お前の黒い睫毛は、眼の色に現われた感情を隠してしまった。
 西洋の誰かが、こんな意味のことを云っている。――昔の野蛮人は、占領した都市に、処女性のない潔白な女を残していったが、吾が文明は、潔白さのない処女を拵え出した。
 なぜこんな文句をここに引出してきたか、お前にはこじつけとしか思えないだろうが、まあ黙って先を聞いてくれよ。
 その晩……全く静かな安らかな晩だったね。夕食後、母とお前と僕と三人で茶の間に集って、電燈の光のまわりに黙って坐ってたじゃないか。
「いやに静かな晩だなあ。」
 余りしんみりしてきたので、僕は少し気がさして何気なく云ってみた。
 すると、意外にも、母はほっと溜息をついた。が言葉はやさしかった。
「ええ、お前が真面目でさえいてくれれば、いつもこうなんですがねえ……。これからは少し落付いてくれなければ困りますよ。」
「落付きますとも、今夜からこの通りに……。」
 その時お前は傍で微笑していたね。その幸福そうな微笑を見て、僕は……全く気まぐれなんだが……ユーゴーの詩を読んで聞かしてやった。ランプの光のまわりに一家団楽しているところや、妻や子が主人の帰りを待ちわびてるところや、楽しい夕食の光景や、そういうつつましやかな家庭の幸福をね。それから最後に、あのコペーの詩さ。主人は朝から晩まで板をけずってる、日曜日に金使いもしない、二人の子供は鉋屑の中で遊んでる、お上さんは家の入口で、貯金の胸算用をしながら編物をしてる、一家安隠で商売繁昌だ。そういう風に僕はごまかして読んでいったが、実は、あれは柩造りの詩なんだ。次の疫病流行を夢想して、収入を空想するところまであるんだ。皮肉じゃないか。
 僕も皮肉だった。心とうらはらな芝居をうっていた。心では、兄の家庭……と云うより寧ろ、兄の家庭で代表されるそうした家庭のことを考えていた。主人は朝から夕方まで勤めに出て、こつこつ機械的に働いてくる。細君は赤ん坊を守りしながら、家の中に閉じ籠ってる。そして粗末な夕食の膳、疲れきった無言の宵、それから薄ら寒い睡眠。それが文字通りに十年一日の如く連続する。一生の間。そして最後に、僅かな貯金と死。
 勿論そんなことは、一口には云えない。そのつつましやかな
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