突然、母の顔が馬鹿に大きくなってつめ寄ってきた。僕はぞっとして、そこにつっ伏して泣き出した……いや、本当に泣いたかどうか覚えていないが、泣き出した気持だった。何だかもうすっかりぼやけてしまっていた。そして結局、むちゃくちゃに失言を釈明して、それから、床の中に逐いやられたものらしい。

 敏子
 こんな話をすると、お前は妙な疑を起すかも知れない。然し僕は何も、自分だけがお前達と違った父親の子であるなどと、そんな馬鹿げた空想を逞うしたことはないのだ。亡くなった父に対しても、それから殊には母に対しても、そんな冒涜な考えは毛頭懐いてやしない。亡父や兄に似寄りの点を自分の顔貌《かおかたち》の中に見出して、どうかすると悲観することはあってもね……。
 ただ僕は、心の上で、魂の上で、父や兄とは違った種族のような気がするのだ。何だかこう、天涯の孤客といったような気持なんだ。非常に自由で晴々としているが、また淋しい。そんな時僕は、自分の魂の父親、そういったものを想像する。空なものかも知れないけれど、またすぐどこかその辺に、自然の中に、空低くに、はっきり存在してるようにも思われる。そして僕はその父に対して、強い愛を感じている。
 お前が知ってる通り、僕は母を大変愛している。ところが、どうかした心の持ちようで、もっと漠然とした然しもっと深い、第二の母の存在を想う時さえある。だから、父が亡くなって長年になる今、第二の父の存在を想うのも不思議ではないのだ。何という不幸な子だ。これで母もなくなって、幾年かたったならば、僕はもう生みの父母のことは忘れてしまって、別な広い父性や母性をばかり、自分の魂の父や母をばかり、想像したり思慕したりすることだろう。
 然しまた、そのために、僕はどれだけ自由に伸び伸びと生きてゆけることか。
 然しこんなことは、お前にはよく分るまいから、これ以上云うのは止そう。だが、そんな気持だから生活が放埓になるのだと云わるれば、僕は一言もない。但し自分では放埓だとも思ってやしないがね。
 それからもう一つ、僕はお前に詫びなければならないことがある。お前は、僕が故意に浜地を誹謗したと思って、嫌な気がするだろう。それはもっともだ。僕の云い方が悪かったのだ。僕はあんな云い方をして、浜地を傷つけるつもりでは少しもなかった。男の心って、それほど潔白なものではないということを、兄に向って云いたかったのだ。僕が時々遊里に足を向けるからと云って、僕をさも汚れた者のように取扱い、風呂にも先に入れないで、而も冗談にもせよ口に出してまでそれを云う、そうした兄に対する反感から、たとえ身体は汚れていようとも、心は潔白だということを、間接に主張して見るつもりだった。それが、反感や酒の酔が手伝って、妙な風にこじれてしまった。浜地のことなんか実はどうでもよかったのだ。
 だから、翌朝になって、母から浜地のことだけを切り離して尋ねられると、僕は実際弱ってしまった。あれは兄をやっけるために浜地をだしに使ったんだとは、まさか云えないものだからね。
「わたしは、お前の昨夜の様子では、この話に反対だとしか思えませんよ。だからさ、反対なら反対でいいんですから、どういうところが不服なのか、はっきり云ってごらんなさいよ。」
 母はいやに落付払っていた。僕は少々面倒くさくなった。
「じゃあ、きっぱり云いましょう。僕は反対じゃありません、賛成です。」
 母は僕の顔をやはりじっと見ていた。
「それに違いなければ安心ですがね……。」そして母は一寸頬をゆるめた。「だけどよく考えてごらんなさい。この話にはお前が一番肝心な人なんですよ。浜地さんは親しいお友達、敏子は妹、その二人の一生のことですからね……。」
 母は僕の立場を重く見ていてくれることは、その場合僕には却って有難迷惑だった。だから僕は、話を早く切り上げるために、少し余計な口を利く必要を感じた。
「一体その話はどの辺まで進んでるんです。」
「どの辺までって、ただ、加藤さんからそういう話があっただけなんですよ。そして、わたしも兄さんも、浜地さんならよかろうと思ってるんですがね……。」
「そして、敏子はどうなんです。」
「承知のようですよ。」
「浜地は。」
「勿論承知でしょうよ。浜地さんの家から加藤さんへお話があったらしいんですから。」
「それじゃ文句はないじゃありませんか。本人同士がよければ、何にも云うことはない。僕も賛成です。何でしょう、もう浜地と敏とは愛し合ってるんでしょうね。」
「ええ……。」
 おや、と僕は思った。母は何か知ってるんだな、というより、何かあったんだな、そう僕は母の様子から感じた。変に言葉尻を濁して、僕の顔色を窺ってるのだ。僕は少しうっかりしてたかも知れない。然し、浜地は僕の親友であり、お前は僕の妹であるが、そのお前達
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