「それでも彼は精神的に汚れていませんかね。」
 母は腑に落ちないような顔付をした。
「下らない。」と兄が横合から口を出した。「お前の小説と同じだ。馬鹿げた作り話だ。」
「それじゃあ、ねえお母さん、こんなのはどうです。」
 或る時彼は寄席に行った。落語の間に娘手踊があった。まずい顔に白粉をぬりたくった娘達が、ぱっとした派手な着物を着て、真赤な長襦袢の裾をちらつかせながら、舞台一杯にもつれ合った。彼は喫驚したようにそれを見ていたが、後でこう云った、「あんなのはつまらない。第一下劣でいかんよ。」「どうです、」と僕は母に云った、「それでも彼は……その精神的に……ねえお母さん。」
「そりゃあね、お前さんと違って、浜地さんには、娘手踊なんか面白くないでしょうよ。」
 意味がよく母に通じないのが、僕には却って愉快だった。
「なるほどな……お母さんは善良だ。それじゃあ、もっと面白い話がありますぜ。……だが、こう冷えてしまっちゃあ……。」
 僕は銚子を熱くして貰いながら、また話し出したものだ。或る時彼は浅草に活動写真を見に行った。金曜日の替り目で、館内はぎっしり込んでいた。その時、彼の隣に、美しく着飾った令嬢風の娘がいた。それが、変に彼の方へ身を寄せてくる。そして写真の代り目になると、プログラムを失くしたから借してくれと云って、それをきっかけに、何かと小声で耳元にちょいちょい話しかけてくる。彼は例の内気さから、初めは用心していたが、次第に引込まれて、一寸手を触れ合うようになった。それに自分で気がついた時は、もう終演際《はねぎわ》だった。さすがに彼も気味悪くなって、先に出てしまおうとした。すると、相手の令嬢も後からついて来た。そして何とはなしに、二人で連れ立って、あの池の縁から観音堂の方へぬけようとすると、そこの暗がりから、三人の不良少年が飛び出して来て、いきなり短刀をつきつけた。俺達が預かってる大事な令嬢を、何で誘惑しようとするんだと、声は低いが図太く脅かしつける。女は平気で笑っていた。彼はもう一縮みになってしまった。
「そうして、」と僕は云った、「まあ何ですね、有り金そっくり巻き上げられるか、叩きのめされるか、傷をつけられるか、何れただではすまない。」
「まあー、浜地さんが、そんな目にお逢いなすったんですか。」
 だが、それは実は、浜地の話じゃなかった。僕が或る不良少年から聞いた話
前へ 次へ
全20ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング