ないって……笑わせるなあ。兄さんには見えないんだ。これでも、精神的には僕の方が汚れてやしないぞ。」
僕の云い方が悪かったか知れないが、それを兄は取り上げて、二三度云い合ってるうちに、友人を誣いるのは怪しからん、誣いるのでなければ証明してみろ、と嵩にかかってつっ込んできた。その時の兄の高慢な顔が、黒い齲歯や図太い食慾と一緒に、おかしな云い方だけれど、それが自分の兄であるから猶更、僕は癪に障ってきた。
「そりゃあ、証明しろというなら、してもみせるが、どうせ兄さんには分りゃしないよ。お母さんになら分るかな。ねえ、お母さん、分る……分るんでしょう。」
杯を手にして、お臀でくるりと向き直ると、母は苦々しげに笑っていた。僕は愉快だった。
「ねえお母さん、素裸になってみりゃあ、誰だって清浄な者あいやあしない。例えば浜地だって、あんなに君子然と澄し込んでるが、一皮剥いでみりゃあ、ねえお母さん……。」
母がもじもじしてるのを見て、僕は饒舌り散らすのが面白くなった。僕は母が好きなんだ。
そこで僕はこういう話をした。
或る時彼が、夕食後散歩に出た。薄暗い裏通りを歩いてると、夏のことで、向うの二階の、窓に簾をかけた室の中が、電燈の光に透して見える。その窓際の、机かなんかに、二人の若い女が坐って、せっせと書き物をしていた。往来から見えるのは、肩から上の横顔ばかりだった。それが却って風情だった。彼は何気ない風をして、そこの通りを幾度も往き来した。散歩の帰りにもまた通って見た。
それから、翌日も、そのまた翌日も、彼はその辺を歩き廻った。簾をかけた二階の窓の中には、いつも二人の女が、せっせと書き物をしていた。何を書いてるのか、往来からは分らなかった。家も相当に立派で、素人下宿とも見えなかった。
そして彼には、夜の散歩が一つの楽しみとなった。窓の女の髪形から横顔の恰好を、すっかり覚え込んだ。さほど綺麗じゃないが、現代式の理知的な、女学生とも職業婦人ともつかない様子だった。いろんな空想が彼の頭に描かれた。
それが可なりの間続いた。そして、十月の初めに暴風雨が襲った。その暴風雨の後、彼女達の窓には、簾が取払われて障子が閉切られた。障子にはやはり明々と電燈の光がさしていたが、彼女達の横顔はもう見られなくなった。それで彼も、その薄暗い通りの散歩を止してしまった。
「どうです、」と僕は云った、
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