見めいたことを云ったね。
「兄さんも、お酒が好きなら好きでいいけれど、外で飲むのはお止しなさいよ。家でならいくら飲んだって……誰も何とも云やしないわ。だから早く……。」
「何が……。」
「早くどうにか……。」
「早く……何が早くなんだい。」
「どうにかして……。ねえ、お母さん。」
 母がにっこり首肯いたのはよかった。僕はふふんといった気持で煙草を吹かした。そしてお前を追求するのは止めた。あの場合お前の口から、早く結婚でもせよとはっきり云わせることは、余り思いやりのない仕打なんだからね。お前と母とが、影で僕のことをどんな風に話し合ったか、それは僕の知ったことじゃない。
 だが、実際、いやに寒い静かな晩だったね。僕は胸がむずむずしてくるのを、しいて蝸牛《かたつむり》のように自分の殼の中だけに引込んでいたかった。そしてふと思いついて、炬燵を拵えようと云い出した。母とお前が取合わないのを、むりに押し切って炬燵を拵えさした。それから、果物を買って来て貰って、お初は父の仏壇へなどと云って笑われた。だが、馬鹿な、誰が仏様なんかを信ずるものか。そして炬燵の中がぽかぽかしてくると、とうとうやはり、ビールに※[#「魚+昜」、488−下−12]さ。お影でつね[#「つね」に傍点]やが一番忙しい目をみた。
 そうして、炬燵の中でビールを飲みながら、取留めもない話をしながら、僕はむりに涙を押え止めていた。何故ともなく、すぐにも泣き出しそうな気持だった。だが、心の中では、別なことを考えていたんだ。こんなちっぽけな家庭なんか吹き飛んじまえ、こんな惨めな幸福なんか、こんな古ぼけた天井なんか、みんな吹き飛んじまえ、青々とした大空が現われてこい……とね。それからまた、お前に向って、俺は今夜お前の通夜をしてやるんだ……とね。
 お前は呆れ返るだろう。僕だって自分に呆れてる。だからこう大急ぎに話を進めているんだ。
 ただ、一つ、僕はビールのコップを差上げながら云った。
「ビールの泡と接吻とは同じようなものさ。唇に残ったかと思えばすぐに消えてしまう。」
 するとお前は、恥ずかしがる代りに怒り出したね。母も険しい眼付をした。
「なあに、僕は子供のことを云ってるんだよ。子供は誰にだって接吻させる。大人にそれが出来ないのは、心が汚れてるからさ。」
「じゃあ兄さんは子供なのね。芸者にだって誰にだって接吻させるんだから
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