母親
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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――癖というのか、習慣というのか、へんなことが知らず識らずに身についてくる。吉岡にもそれがあった。十一月十五日、七・五・三の祝い日に、彼は炬燵開きをするのだった。炬燵開きといっても、大したことではない。独身の貧しい彼のことだ。押入の片隅から、古ぼけた炬燵と薄い掛布団とを取り出し、ぱっぱっと埃を払い、炭火を入れれば、それでよい。日当りのよい六畳の室だから、暖い日が続けば、炬燵は隅っこに押しやっておく。だが、最初の日だけは、炬燵の温度をしばらく楽しむのである。今年も、七・五・三の祝い日、彼は会社への出勤を休んで、炬燵開きをし、薄曇りの空を硝子戸ごしに眺めながら、とりとめもない夢想に耽った。五合の酒に、スルメとピーナツ、それだけで結構、午後の半日が楽しめるのである。火鉢に、酒の燗をする湯までわかしているので、室の中は暖い。だが、戸外の空気は冷たかった。その冷たい空気のなかを、信子が、七つになる娘の喜久子を連れて歩いている……。
信子も喜久子も、ふだん着のままだ。
信子は片手に、藁であんだ買物袋をさげ、片手で、娘の手を引いている。娘の手が如何にも貴いものであるかのように、心からの温かみをこめて、しっとりと担っている。娘の方も、母の手に心から縋っている。買物袋の中には、鶏肉が百匁、竹の皮と新聞紙と二重に包んで、ぽっちりとはいっている。
一方はまだ戦災の焼跡のままになってる四辻まで来ると、信子は娘をかえり見る。
「ちょっと、お詣りして来ましょうね。」
「どこ?」
「今日ね、七・五・三のお祝いの日ですよ。あなたも七つだから、氏神さまに、お詣りしましょう。」
「ああ、七・五・三て、聞いたわ。きれいな着物をきて、神さまに、お詣りするんでしょう。」
「そうよ。でも、買物の帰りですから、この儘でいいのよ。」
二人は神社の方へ曲って行く。
――吉岡はかじっていたスルメを捨てて、酒をぐいぐい飲んだ……。信子よ、幼い者に向って、なぜ嘘をつくのか。七・五・三の晴着がなければ、ないでいいじゃないか。ないのをむしろ誇りとしたらどうか。初めからお詣りをするつもりでいたくせに、わざわざ買物袋などをさげ、買物の帰りだからふだん着のままでよいなどと、なぜごまかすのか。幼い者にはありの儘を言って聞かせなさい。そうだ、あの衣裳屋の店先に立っていたことも、すっかり言って聞かせなさい。
信子は店先に暫く佇んで、それから中へはいって行く。
出来合いの女服と子供服が両側にずらりと掛けてある。その子供服の方へ信子は行って、縞模様を晩め、定価を見調べ、思案してはまた眺め、次第に奥へはいってゆく。突き当りの卓上には、反物が積み上げてある。そこから、一人の店員が出て来る。
「お子様のものでございますか。新柄がたくさん取揃えてありますが、お幾つぐらいでございましょう。」
信子は眼を大きくし、口を少し開いて、言葉もなく立ちつくす。どうしてこんな奥まではいり込んだのか、自分でもびっくりしてるようだ。
「今日は、ちょっと見ただけで、またにしますわ。」
呟くように言い、くるりと向き直って、店を出る。そして逃げるように、足早に立ち去って行く。
――吉岡はやけにピーナツを指先でおし潰し、そして酒を飲んだ……。信子よ、娘の衣裳を買ってやりたいというその気持ちは分るが、買う金もないのに、どうしてあのような店にふらふらとはいって行ったのか。なぜ抵抗しなかったのか。抵抗することによってこそ、人間は強くなる。娘の七つのお詣りをするのは、一向構わないが、そうだ、その通り、ふだん着のままで堂々とお詣りをなさい。
綺羅をかざったお詣りは、午前中に多いが、午後もなお絶えない。三つの男女、五つの男、七つの女、それらの幼い者たちが、和洋とりどりの衣裳を着飾っているばかりでなく、附き添ってる親たちまで、今日を晴れと装いをこらしている。その往き来で、神社の中はぱっと花が咲いたように見え、なお、飴や玩具類の屋台店が立ち並び、風もないのに風車はくるくる廻り、風船玉はふわりと宙に浮び、あたりに香りが漂っている。信子は買物袋をさげ、喜久子の手を引き、人込みの鋪石道をさけて、屋台店の後ろを通り、唐門をくぐって行く。
そこで、はたと当惑する。
拝殿の前には、太い綱が二本張られていて、その両方に狭い通路が設けられており、左手の通路内の卓子に、一人の神官が帳簿を前にして控えている。参詣の子供たちの氏名を書き留めるのであろう。拝殿の前面には、美装の人々が立ち並び、
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