出し、また繰り返して、眺めたり読んだりする。
「お母ちゃん、あのね、あたしが学校にゆくと、お母ちゃん淋しいでしょう。」
 台所から信子が返事する。
「今から、そんな、生意気なこと言うんじゃありません。」
 喜久子は首をすくめて、また絵本に見入るのである。
 ――吉岡は酒をぐいぐい飲んだ……。信子よ、私はだいぶ酔ってきた。だが、これを飲んでしまいたい。そして散歩に出よう。雲が切れて、夕日がさしてきた。夕日の中を歩きたいのだ。然し、あなたを訪れに行くのではない。実は行きたいのだが、なにか憚られるのだ。私は卑怯なのだろうか。高須君の戦死を聞いて、一度、仏前におまいりしたきり、御無沙汰をしている。本来なら、時々伺う筈だ。然し、私は敢て非情になろう。あなたに対する嘗ての愛情が、まだ胸うちにくすぶっているし、私のその愛情を、あなたも記憶している筈だし、しばしば往き来しているうちには、どういう結果になるかも知れないと、それが恐れられるからだ。そういう例は、所謂戦争未亡人に多々ある。私はそういうことが嫌いだ。固より、現在私は自由の身であるし、あなたも現在は自由の身であるし、愛情関係を心配する必要はない。然し、私は高須と友人だった。その一事のために、高須の妻だったあなたを愛することを恐れるのだ。高須が私にとって未知の男だったら、何でもないが、友人だったために、もしも私とあなたと愛しあった場合、高須のことが私たちの愛情に投影することを怖れるのだ。これは台風な考え方かも知れない。或るいは新らしい考え方かも知れない。いずれにせよ、私にはその怖れが大きい。あなたに対する愛情の再燃の可能性も大きい。だから私は敢て非情になろう。そしてその非情によって、母たるあなたを尊重し、あなたの娘の喜久子さんを尊重したい。このことを許容し得るほど、母たるあなたが強いことを、私は信じ且つ祈る。
 信子はいつも、仕事を大切にし丁寧にしている。仕事というのは、表に小さく看板を出してる御仕立物のことで、それによって細々と生活してるのである。
 新らしい仕立物は言うまでもなく、着物の縫い直しまで、彼女は丹念にやる。仕上げると、仕附糸まで仔細に見調べた上、折目正しくたたんで、錦紗の風呂敷につつみ、胸高く手で抱えて、依頼先へ届けに行く。
 街路には、銀杏の黄色い葉が散り敷いている。その上を彼女は、吾妻下駄で小股に歩いてゆく
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