あまり度々、この近所を荒し廻らないがいいですよ。飲むなら、銀座あたりに出かけたらどうですかね。」
大五郎はふらふらと立上った。ゆっくりと丁寧に靴の紐を結んだ。会社員らしい一人の客と春枝と、くすくす笑いあっていた。その方を、大五郎はつっ立ってじっと見たが、黙って表へ出て行った。
彼の頭に、また大きな犬の姿が浮んだ。浮んでは消え、消えてはまた浮んだ。彼はその姿を追っかけて、胸の中で、声には出さないで、犬の吠え声をまねた。ふらふらした足取りが、その吠え声に調子を合せた。
電車通りを、宿泊してる親戚の家の方へ辿っていると、薄暗い並木の蔭に、小さな男の姿が立っていた。彼はその小男の姿と向きあって立止り、じっと睥めくらをしてるうち、ふしぎな憤りを感じて、拳をかため一撃した。
乗合バスの標柱が音を立てて転った。
彼はその音を耳にしなかった。相手を打倒したはずみに、よろけて、並木にもたれかかったが、そのままずるずると身体をずらして、そこに屈みこんだ。そして軽い鼾の音を立てた。
すさまじい轟音に、彼は眼を開いた。轟音とは似もつかず、玩具のような電車が彼方へ走っていた。彼はなにか腑におちぬらし
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