しゃい。」
大五郎は椅子から立上った。
「こちらがいいでしょう。」
村井に導かれるまま、大五郎は畳の上の隅の餉台に就いた。ここもまた、呑み台のまわりの土間に並べた椅子席と、右手と入口のわきとに畳敷きの坐席がある。大五郎は馬革の靴を大事に上り框の下にそろえた。壁には、その半分ほど、ばかに大きな太平洋中心の地図が、鋲でとめてあった。
春枝が、大五郎の銚子や小皿物を運んできた。村井はちょっと奥へはいって、暫くしてまた出てきた。
「今日は、私がお返しをしなければならない。といって、何もありませんが、一杯飲んで下さい。」
へんに低く、囁くような調子だった。
大五郎もふだんより低い声でいった。
「それはどうも。だが、なぜですか。」
「一昨日の晩か、春枝に十円おいてゆきなすったでしょう。すぐに追っかけたが、さっと行ってしまいなすったそうで、彼女は困っていました。まあ、そのお返しというわけですがね……。」
笑顔だが、底意ありげな言葉だった。大五郎は怪訝な眼付をした。
「このへんでは、ああいうことははやりませんよ。」
「ほう、はやらない……変ったもんですな。」
「あなたの方が変ったのでしょう。」
「いや、僅か五六年、変るもんですか。このへんが変った…いや、日本が、何もかも変ったようですな。」
「そう見えますか。どう変りました。」
どうといって、大五郎にははっきりいい現わせなかった。だが、おかしなことがある。先程まで、皆がふしぎに黙りこんでいたのが、大五郎の帽子や外套の絨毛が隅っこに引込んでからは、低い声があちこちに起って、春枝までが明るい笑い声をたてるのである。そちらを、大五郎はぐるりと見廻して、村井にいった。
「どうも、変りましたな。話をするにも、ひそひそ囁くような低い声だし、笑い声も、忍び笑いのようだし、いやに静かで、その上、隣りの人にも話しかけてはいけないしい[#「いけないしい」はママ]。こんなことで、東亜の大戦争がよく出来たもんですな。」
「そこが日本人のたしなみというものでしょうよ。そのたしなみがあってこそ、本当の勇ましい戦争も出来る。私などはそう考えますよ。」
「たしなみ……なるほど、そうかも知れないが、満洲では、一般にもっと元気ですぜ。飲むにも食うにも、笑うにも、話をするにも、こんな火の消えたような調子じゃありませんな。」
そこへ、皿の物や銚子が運ばれてきた。村井が春枝になにか耳打ちすると、やがて、サントリーのウイスキー瓶まで持出された。
大五郎は顔の厚い皮膚をほころばした。そして満洲のことを論じだし、日本にとって満洲が如何に重要な地位を占むるかを説きたて、而も日本人一般が、南方にばかり心を向けて、満洲のことを忘れるようなのを、慨歎し初めたのである。
「分りました。」
ぷつりと村井は話の腰を折った。
「だが、あなたは一つ考え落してることがありますよ。満洲は現在、謂わば銃後の土地でしょう。われわれは皆、前線の戦地のことを考えてるのです。満洲がもし前線となったら、その時には、お望み通り、皆が皆、満洲のことを考えるようになりますよ。」
「それがいけないんだ。ふだんから考えていなければ、いざという時には間に合いません。」
「然しとにかく現在は銃後ですよ。銃後はみな一心同体、東京も札幌も鹿児島も同じだし、日本も満洲も同じですからね。その一心同体が、この大戦争を遂行しているのではありませんか。」
大五郎には、それがはっきりしなかった。腑におちない顔付で、ウイスキーのグラスをあけた。
「然しですな、満洲は新興の国ですよ。そのことを話しかけても、なぜ誰もそっぽを向くんですか。憤慨にたえません。」
声が大きいので、客の二三人が振向いて眺めた。村井はにやりと笑った。
「相変らずやっていますね。」
大五郎は気勢をそがれて口を噤んだ。
「まだあちこちで、満洲をもちだしているんですね。今晩はどこで飲みました。」
何もかも見ぬいているように、眼で笑っていた。
大五郎は何か重大なことを思い出そうとしてるようで、自分でもそう感じて、黙っていたが、ふいに、村井へ顔を近々とさし寄せて、囁いた。
「まだ、さっぱり見当りませんよ。」
村井が反対に声高く笑った。それから、低いが力強い調子でいった。
「それがいけないんだ。」突然ぞんざいな言葉になっていた。「あなたは、その奉天の店をやらせる女を、女房がわりの女を、酒を飲み廻って探し廻っているが、それがいけないんだ。だから、あなたの満洲の話には、酒場の匂いがするし、金儲けの匂いがする。もういい加減によしたらどうです。誰も真面目に聞く者はありませんよ。」
村井はじっと大五郎の眼の中を見た。
「ここにしたって、春枝までが笑っている。あんな真似は、満洲ではどうだか知らないが、こちらでは通用しませんよ
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