、お上さんを好きだってんだ。貧乏人も金持もねえさ。金でもって威張ろうたって、そうはいかねえや。ここに来ちゃあ、誰も彼も同じさ。お上さんの意気が嬉しいってことよ。」
大五郎は椅子から立上った。そして声のした方を向くと、そこにいるのは、言葉の調子とはまるで違って、商店員風な縞の着物の若者二人だった。
その二人は、大五郎の方をもう見向きもしないで、まあも一ついけよ、という調子で、朗かに盃をさしあっていた。
大五郎はつっ立ったままじっと眺めた。眉根がぴくりと動いたきりで、日焼けのした厚い皮膚は深く静まり返った。
「君は片山さんに似てるね。」と彼はぽつりといった。
片山さんというのは、自由主義的だと見られてる有名な政治家だった。
「似てますかね。」と相手の一人はおとなしく応じた。「片山さんはよく知ってますよ。懇意にしていますんでね。始終出入りしてますし、選挙の手伝いもしたことがあるんですよ。片山さんに、似てますかね。」
こんどは、大五郎の方で返事をしなかった。むっと口を噤んで、ただじっと二人連れを見ていた。
「花ちゃん。」
お上さんが突然、女中を呼んだ。
「勘定を貰いなさいよ。何を出したの。お酒とお通し、……八十銭、貰っておしまいなさい。」
大五郎は彼女の方を向いて、まだじっと立っていた。彼女は女中の方にいった。
「八十銭きりだよ。どうしたの。こまかいのがなかったら、いくらでも、おつりをあげますよ。」
大五郎はズボンの隠しをさぐった。そしてゆっくりと八十銭を探しだし、呑み台の上に静かに置き、毛糸の手袋を掴んで、表へ出た。その時すぐ、もう燗がつきすぎてる銚子を、背広の男へ女中が差出したのを、大五郎は見返りもしなかった。たといそれを見つけたとしても、彼はやはり黙って出て行ったであろう。
何か深い思いに捉われていたのである。その深い思いの底から、酔った頭に、大きな犬の姿が、如何にも自然らしく、浮んできた。
それは、彼の奉天の店へ、時々現われた犬である。恰好はセパードに似て、大きさや毛並は土佐犬に似た、ひどい雑種だ。往来で、何かに瞳をすえて、歯をむきだしてる姿には、ひどく猛々しいものがあった。そいつが、どういうものか、店の中へ時々はいりこんできた。はいって来ると、鳴きもせず、歯をむきだしもせず、へんに面喰ったような愚鈍な様子になって、隅っこに屈みこんでいる。料理の残りを投げやっても、食べようとしない。足をふみ鳴らして立上らせようとしても、きょとんとしている。そして酔客から酒をぶっかけられると、ぶるっと身体をふって雫をきり、のっそりと外へ出て行くのだった。それが、老犬や病犬ではなく、大きな逞ましい若犬なのである。
何のために店へはいってくるのか、誰にも分らなかった。物も食べず、何とされても怒りもせず、のっそり出て行くのが、誰にも不思議だった。それから寒気がきて扉を閉めきるようになると、全く姿を見せず、往来にも見られなくなってしまった。
その犬のことを、大五郎はまざまざと眼前に思い浮べた。そしてとぎれとぎれの言葉を呟いた。それは単なる言葉や想念ではなく、はっきりした犬の形態として酔眼に映じたものだ。
……あいつは場違いだ……場違いだから、人に勝手な真似をさした……場違いだから、怒れなかった……怒る気もない……こいつは、ちとおかしい……場違いとは、在るべきところに居ないということか……そんなら、なぜはいってくるんだ……何かがある……場違いにも何かがある……場違い、場違い……だが、しっかりした足つきで、のっそり出て行きやがる……強い足だ、強い歯だ……そうだ、馬革の靴だ……見ろ、馬革の頑丈な靴だ……。
大五郎は馬革の重い堅い靴をはいていた。舗装路の上に、靴はかたっかたっと音を立てた。彼はそれを自ら楽しんだ。
靴音を楽しみながら歩き続けて、殆んど無意識な予期のもとに、真鋳の横棒を二本渡した硝子戸の内にこもった明るみが、眼についた。
彼はその中にはいった。
数名の人影があった。正面に、白い顔の奥深い黒目が、にこりともせず冷かに頷いてくれた。
「酒を下さい。」
いやに丁寧なのが、愚鈍なぼやけた気持となって返ってきた。彼はその気持のなかから、浮び上るようにして、春枝の姿を眺めた。割烹着の細かな花模様の赤と黄と青とが、ちかちかと眼を刺激[#「刺激」は底本では「剌激」]した。彼は眉をしかめて酒を飲んだ。
客はみな黙っていた。ふしぎなほど黙っていた。大五郎も黙っていた。
奥に通ずる木の扉を静かに開いて、中年の男がはいって来た。短い口髭をはやし、和服姿の肩がまるく、でっぷり肥っている。それが村井だと、水の中のような静けさのなかで、大五郎は気付いたのだが、やはりじっとしていた。
村井は真直に大五郎の方へやってきた。
「やあ、いらっ
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