何の返事もなかった。誰も黙っている。
大五郎は屋内を見渡して、また椅子に腰を下した。呑み台の向うの女中が、隣席の男に酌をしながら、にやりと笑った。大五郎はつきだしの小魚を一匹つまんで、銚子をあけた。
「お酒がすんだら、帰って下さいね。」
また、女の声がした。
彼女は立上っていた。小紋錦紗のすらりとした姿で、重ね着の淡色の襟を二枚、白縮緬の半襟の上にのぞかせ、臙脂矢羽根の帯締に小さな銀鍵をさげている。それが、着附のうまさにすらりと見えるが、贅肉が多く、首筋が太く、声はしゃがれていた。
「ほんとは、お断りしたかったんですよ。やたらにほかのお客さんに話しかけると、気分をわるくしますからね。満洲の写真だの、そんなものは、新聞じゃあるまいし、ここには不向きですよ。いきなりいろいろなことを並べられたら、誰だっていい気持はしませんからね。ほんとはお断りしたかったんですよ。お酒は一本きりですから、すんだら帰って下さいよ。」
彼女は云いたてながら、畳敷きのところから、狭い板廊下を通って、青布の暖簾の彼方へ消えた。暖簾の向うは、広い板の間で、相当な料理屋の勝手許になっていて、この酒場はつまり、その料理屋の宣伝機関の一つなのである。それから見れば別に不似合でもなく、畳敷きの上手の半間の置床には、青銅の薄端《うすばた》に水仙の花の一茎がすっきりと活けてある。
大五郎はその水仙の花をぼんやり見ていた。客が二人はいって来て、畳敷きの下手の方の餉台につき、女中が酒と小皿物を運んでいったが、大五郎はまだぼんやりと、水仙の方に酔眼を向けていた。
丸髷の女がまた暖簾から出て来て、元の席へ行きながら、彼の方へいいたてた。
「もうお酒はおすみでしょう。一本きりですからね、帰って下さいな。初めから、ほんとにお断りしたかったんですよ。ずいぶん酔っていらっしゃるんでしょう。帰って下さいよ。まだお飲みになりたかったら、このへんに、飲ませるところはいくらもありますよ。ついこの先にもありますよ。うちでは、一本がきまりですからね。満洲のようにはいきませんよ。どなたにも同じですからね。どなたにも気持よく飲んで頂きたいんですからね。酒がすんだら、帰って下さいよ。」
その時、盃をやりとりしていた新来の二人連れから、大きな声が響いた。
「そうだ。お上さんのその意気だ。貧乏人も金持もねえ、みな同じだ。なあ。だからさ
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